安部立郎君は篤学の士なり頃者ー書を懐にし来りて余に請ひて曰く夫れ本郡の地たる武蔵野の中央に位し八州の要衝に当り古来群雄崛起吶喊驅馳の跡所在比々としてあらざるはなし且夫れ本郡は土壌膏腴家給し人足り生業豊にして産物に富む吾儕郡内に棲息するもの豈之れが研究を忽にすべけんや然るに本郡従来此種の著述に乏しく青年後学の士亦之を尋討するに由なし立郎私に以て憾となす乃庸陋の譏を顧みみず之れが編纂を企て東馳西奔実査三裘葛漸く以て此稿を成せり剪劣の筆敢て大方を利すると謂ふにあらず聊か以て研究の一助となさんと欲するのみ若し二百の辞を賜ひ之を世に公にすることを得ば或は青年子弟を裨益するに足らんと嗚呼郷土を愛するは郷土を知るより善きは無く郷土を知るは郷土を研究するより善きは無し余乏を本郡長に承くると茲に数年常に郡誌の欠漏を憂ひ又其資料の備はらざるを慨せり安部君の此の挙先づ吾意を獲たるもの豈欣喜賛襄せざらんや然りと雖余は史事に盲なり本書の真価を定むるに足らず唯夫れ読者此書によりて本郡研究の緒を求めば徒に其地勢を知り風物を察するに止ま らず其愛郷の念を鼓舞し以て教化に資する所尠少にあらざるべきを信ず然らば則安部君の此著永く陳呉の功を擅にするに足らん序言の請豈辞すべけんや欣然筆を執て之を誌すと云ふ
大正元年十月下浣
埼玉県入問郡長市川春太郎