郷土に関する文芸

和歌に対する科学的見解

郡内郷土に関する文芸としては、古来和歌を以て其随一とせり。 然れども和歌なるものゝ多くは、必ずしも歌人の足、直接其地を踏て然る後に詠せし所にあらずして、伝承、摸倣、盛に行はれ、或は東国の見聞談に基き、成は実地を詠へる古歌に擬して、単簡なる或一種の形容をあらはせるもの比々皆然り。 故に其詠ふ所大概同一轍に出でゝ、然も其弊甚だしきは歌上の名所、紙上の勝地を製造するに至ることなきにしもあらざる也。

武蔵野の古歌

武蔵野は古来頗る歌人の情懐を牽きたりけん、之に関する歌枕極めて多し、然れども仔細に之を検する時は、其意味する所、殆ど五六種に限れるが如きを見る也。 古く万葉の東歌には流石、東国人の口より出てしだけ、其歌へる所、「むさしのゝ草」、「むさしのゝ小岫」、「むさしのゝ鹿」などを以てし、個々の事物を捕へて、未だ広漠たる原野と形容せしが如き例を見ず。 降て古今集には武蔵野の特産たりしと覚ゆる「紫」(紫とは今の何草なるや著者不明にて未だ之を詳にせず,但紫は信濃にも産せしが如し)に関する和歌を加へ、後選拾遺集、新古今集に至て始て、「草原のむさしの」「秋風のむさしの」、「秋草のむさしの」、「行末遠きむさしの」、等広濶なる原野の気象を歌ひたり。

後鳥羽天皇御製

逢人に 問へど かはらぬ 同し名の 幾日になりぬ 武蔵野の原(続古今集)

後京極摂政

行末は 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出る月影(新古今集)

久明親王

武蔵野や 入るへき 峯の遠ければ 空に久しき 秋の夜り月(続千載集)

通方

武蔵野は 月の入へき 嶺もなし 尾花か 末にかゝる 白雲(続古今集)

要するに武蔵野に関する和歌は後拾遺新古今以後に於て其数も多く、而して其大多数は、広濶、無限等を詠ひて偶々山嶺、月光、尾花等に及べるのみ。 故に半面より之を極言すれば武蔵野の古歌は概して単調平凡殆ど旧態を脱せざるものなりと雖、其中自ら我国風の特色も見えて、名歌も多く、興趣甚だ深し。

浅羽野の古歌

更に浅羽野に関しても古歌多し。 浅羽野は今の坂戸町付近の平野に当れども、信濃国等にも亦同名の平野あり。 故に必ずしも浅羽野の古歌の全部を以て郡内の文芸なりとすべからず。 勿論浅羽野の特産物は『菅』也。 菅は今日の藺ならんか。 藺今も尚坂戸付近に産す。

為藤

夕くれは 浅葉の野らの 露なから こすけ乱れて秋風を吹く。

経道

立鳥のたつみは小菅木かくれぬ雪はあさはの野辺の御狩場

三芳野里と多能武沢

三芳野里、田能武沢は伊勢物語に出でゝ、古来何人も在原業平を連想す。 然れども其事蹟茫漠、而して其地の今何れの処に当れるやを詳にせず。

みよしのゝ田のむのかりもひたふるに君の方にそよるとなくなる

我かたによるとなくなる三芳野のたのむの雁をいつか忘れん

堀兼井と迯水

堀兼井迯水の如きに至ては古来歌枕に乗りたること多きだけそれだけ、又其本来の由縁漠然たりしだけそれだけ、今日に至て稍紙上の名勝たるの威なくんばあらず。

俊成卿

武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近つきにけり

西行

くみてしる人もあらなん自づから堀兼の井の底の心を

冷泉卿

武蔵野や堀兼の井の深くのみ茂りそまさる四方の夏草

狭山と霞ヶ関

其他狭山、霞ヶ関等歌はれたる名勝少からざれども、狭山は他郡にもあり、霞ヶ関に至ては或は寧ろ多摩郡小山田に存せしものを以て其真蹟なりとすべきが如し。

紀行文

次に武蔵野の紀行文としては、戦国時代に成りしもの多く、其中当時の状態を観察するに屈強の材料たるものすらあり、北条氏康の武蔵野紀行は偽作なること明白なりと雖、道興准后の廻国雑記、宗長の東路の津登、万里の梅花無尽蔵、宗祇の北国紀行及終焉記等の如きは其著しきもの也。 何れも文章閑雅にして簡潔よく紀行文の体を得たり。

近代の作物

徳川時代に至ては詩歌俳諧を始めとし、和漢の文章夫々郡内の勝地を記せるもの少からずと雖、著しく後世に残るべきものを見ず。 明治の文士の作に至ては国木田独歩に「武蔵野」あり、大町桂月に「川越遠足」、「荒幡新富士」外一二点あり。 吉江孤雁に「武蔵野周遊記」あり。