王朝時代
大和民族は崇神天皇の御宇より、漸く地方の経略に着手し、景行天皇の御宇、日本武尊の東夷征伐あり、次で天皇の東国を巡行し給ふあり。
御諸別(ミモロワケ)王は上野に治し、常陸の勿来、磐城の白川の二関は東国の関門となり、関東の地方、夷狄の禍少きを得たり。
次で成務天皇は地方制度を整理し給ひ、兄多毛比命を無邪志国造とす。
先是、崇神天皇は、知々夫彦命を以て知々夫国造とせるを以て、当時武蔵は知々夫、無邪志の二国なりしを知るべき也。
既にして崇峻天皇の頃より国造等の監察を目的として設けられたる国司の制は、大に進み大化の改新に至て、遂に国造を以て、寧ろ之を郡領とし、大抵古の数国を合して一国を作り、守介掾目の職を定めたり。
此に於て今の多摩郡府中町は武厳国の国府となれり。
入間郡は和名抄に「伊留末」と訓す。
万葉集武蔵国歌に「伊利麻路乃云々」とあるは、入間路の義なるべく、「イリ」、「イル」、古、相通用せしものなるに似たり。
入間郡の創立は何れの頃にあるか、明ならずと雖、元正天皇霊亀二年五月辛卯、駿河甲斐相模上総下総常陸下野七国の高麗人千七百九十九人を武蔵に遷し、高麗郡を置きしこと見えたり。
之れ今の高麗村付近一帯の地なりとす。
然れども当時の郡界の如きは殆ど精密なるものにあらず。
其後も屡変動せるものゝ如し。
続日本紀称徳天皇神護景雲二年七月壬午、武蔵国入間郡の人正六位勲五等物部広成等六人、姓入間宿禰を賜はる。
光仁天皇宝亀三年武蔵国入間郡の人矢田部黒麻呂、其戸徭を免ぜられ、以て孝行を旌はさる。
同八年武蔵国入間郡の人大件部真赤男、西大寺商布一千五百段、稲七万四千束、墾田四十町、林六十町を献ぜしかば、其身既に死してより、外従五位下を追贈さる。
蓋し物部、大件部、矢田部の如きは古に於ける入間郡の盛族にして、偶々物部は政治上、大件部は経済上、矢田部は道徳上の力によりて古史に名をあらはされたるがために、後世に伝はれるのみ。
其他無名の盛族なきにしもあらずとす。
而して此等の諸族は夫々多数の部族を従へ、氏神を携へて、郡内に移殖し、繁昌し力るものゝ如し、延喜式に出でたる諸社の如きは恐らく此頃の盛族に関係あるものるべし。
高麗氏の一族に至ては高倉福信あり。
其祖を福徳と云ふ。
福信に至り、聖武天皇の寵を得て、従四位紫微少卿に至り、高麗朝臣の姓を賜はり、信部大輔に遷り、従三位を授けられ、武蔽守近江守を歴任し、高麗を改めて、高倉と称す。
桓武天皇延暦四年上表して、身を乞び、八年八十一歳にして薨せりと云ふ。
開発の勢は平安朝に至て益進み、川越喜多院は淳和天皇天長七年に創立せられたりと称し、十年には多摩郡との境に当て、悲田処の設けられしこと、続日本紀に見えたり。
悲田処は即ち施療院にして、養育院を兼ね飢病者及棄児を収容し、仏説に動機を発したりと雖、蓋し一種の社会政策也。
文徳天皇嘉祥三年六月己酉詔して武蔵国広瀬神社を官社に列せること見ゆ。
広瀬神社は水富村にあり、式内社也。
八幡宮は此頃頻りに信仰せられ、神仏は融合の端を発し、而して此等の傾向は首都より漸く移て東国にも及ばんとし、而して郡内の地方には後年武蔵七党乃至坂東八平氏に数へらるべき諸氏族蔓延の端緒既に開けつゝありき。
而して私田開墾、私権拡張の弊は、国司遙任、国司交代の紛害等を相件ひ、民人塗炭に苦しみ、不平の徒所在に出没し、武人の要求漸く切にして、地方の豪族が史上に頭角を擡ぐべき時期は来らんとす。