大和民族は崇神天皇の御宇より、漸く地方の経略に着手し、景行天皇の御宇、日本武尊の東夷征伐あり、次で天皇の東国を巡行し給ふあり。 御諸別(ミモロワケ)王は上野に治し、常陸の勿来、磐城の白川の二関は東国の関門となり、関東の地方、夷狄の禍少きを得たり。 次で成務天皇は地方制度を整理し給ひ、兄多毛比命を無邪志国造とす。 先是、崇神天皇は、知々夫彦命を以て知々夫国造とせるを以て、当時武蔵は知々夫、無邪志の二国なりしを知るべき也。
既にして崇峻天皇の頃より国造等の監察を目的として設けられたる国司の制は、大に進み大化の改新に至て、遂に国造を以て、寧ろ之を郡領とし、大抵古の数国を合して一国を作り、守介掾目の職を定めたり。 此に於て今の多摩郡府中町は武厳国の国府となれり。