奈良朝時代の入間の盛族

続日本紀称徳天皇神護景雲二年七月壬午、武蔵国入間郡の人正六位勲五等物部広成等六人、姓入間宿禰を賜はる。 光仁天皇宝亀三年武蔵国入間郡の人矢田部黒麻呂、其戸徭を免ぜられ、以て孝行を旌はさる。 同八年武蔵国入間郡の人大件部真赤男、西大寺商布一千五百段、稲七万四千束、墾田四十町、林六十町を献ぜしかば、其身既に死してより、外従五位下を追贈さる。 蓋し物部、大件部、矢田部の如きは古に於ける入間郡の盛族にして、偶々物部は政治上、大件部は経済上、矢田部は道徳上の力によりて古史に名をあらはされたるがために、後世に伝はれるのみ。 其他無名の盛族なきにしもあらずとす。 而して此等の諸族は夫々多数の部族を従へ、氏神を携へて、郡内に移殖し、繁昌し力るものゝ如し、延喜式に出でたる諸社の如きは恐らく此頃の盛族に関係あるものるべし。

高麗氏の一族に至ては高倉福信あり。 其祖を福徳と云ふ。 福信に至り、聖武天皇の寵を得て、従四位紫微少卿に至り、高麗朝臣の姓を賜はり、信部大輔に遷り、従三位を授けられ、武蔽守近江守を歴任し、高麗を改めて、高倉と称す。 桓武天皇延暦四年上表して、身を乞び、八年八十一歳にして薨せりと云ふ。