平安朝時代の概観

開発の勢は平安朝に至て益進み、川越喜多院は淳和天皇天長七年に創立せられたりと称し、十年には多摩郡との境に当て、悲田処の設けられしこと、続日本紀に見えたり。 悲田処は即ち施療院にして、養育院を兼ね飢病者及棄児を収容し、仏説に動機を発したりと雖、蓋し一種の社会政策也。

文徳天皇嘉祥三年六月己酉詔して武蔵国広瀬神社を官社に列せること見ゆ。 広瀬神社水富村にあり、式内社也。

八幡宮は此頃頻りに信仰せられ、神仏は融合の端を発し、而して此等の傾向は首都より漸く移て東国にも及ばんとし、而して郡内の地方には後年武蔵七党乃至坂東八平氏に数へらるべき諸氏族蔓延の端緒既に開けつゝありき。 而して私田開墾、私権拡張の弊は、国司遙任、国司交代の紛害等を相件ひ、民人塗炭に苦しみ、不平の徒所在に出没し、武人の要求漸く切にして、地方の豪族が史上に頭角を擡ぐべき時期は来らんとす。