天慶に於ける将門の乱は藤原秀郷、平貞盛の勢力を東国に延し、其同族にして先是、東国に土着せるものも益々繁栄し、長元に於ける平忠常の反は源頼信の勢力を東国に賦植し、前九年後三年の役後に至ては、源氏の勢牢として抜くべからざるに至れり。 保元平治の二役、源氏の旗風振ふ能はずして、天下は一たび平家の有に帰し、源家層恩の東国武士も稍平氏の門に馳せたるありと雖、多数は依然として、剛健なる気象を失はず、所謂東国武士の本領を純に保存して、而して一意伊豆の天に其所謂「佐殿」の起つを待ちたりき。
既にして頼朝兵を起し、総武を席捲して、相模に入らんとするや、東国の将士争ふて之に馳す。 郡内諸豪の如き亦其中にあり。 かくて鎌倉の覇府成り、世は将軍政治、即ち東国武士に養はれたる素朴純潔なる気象を以て、浮華輕跳にして危険なる平安朝文明矯正の時代となれり。