鎌倉時代の経過

頼朝鎌倉に拠り、義仲京師にありて不和となるに及び、義仲の子清水冠者義高鎌倉を遁れ、入間川に至て遂に討たる。 其後七党以下諸豪族の力により、鎌倉時代の幕開けて、天下武門の政治となり、頼朝義経の不和は川越氏の地位を甚だしく不可ならしめたりと雖、其後家名を断絶せずして南北朝の頃に及ぶを得たり。

先之建久四年那須野に狩するの途、頼朝諸将を卒て、入間野に追鳥狩を行へることあり。 其後富士野に狩す。 当時幕府は平穏無事にして、頼朝の黄金時代たりし也。

頼朝の復古政策、鎌倉幕府の復古政策は時代の精神に伴ひ敬神崇仏の信仰を進め、殊に社寺の造営を盛にし、八幡神社は殆ど源氏乃至源家の武士の氏神の如く、豪族の館には又其傍に仏寺の建立あるを常とせり。 禅、浄土、日蓮等の新宗数勃興して、日本に於ける宗教改革とも称すベき時期は此頃なりし也。

北条氏天下を掌握するの前後、七党の中、聊か断絶或は興隆あり。 泰時に至ては武蔵野の開拓に着手し多摩入間両郡の如き頗る面目を改めたるものゝ如く、之を要するに鎌倉時代は北条氏善政の下に郡内の地方も平穏にして比較的繁栄せしものゝ如し。