南北朝(吉野朝廷)時代
北条氏の時代漸く傾きしも、後醍醐天皇の雄図一たび挫け、関東の大軍は金剛山こみたりしが、源家の名門として、当時に重きを成せし足利尊氏は漸く志を帝に傾け、而して新田義貞は上野に兵を起し、鎌倉に向て進発せり。
太平記の伝ふる所によれば、義貞は五月八日義旗を立て、九日武蔵に出て、所謂鎌倉街迸を進て、十日夕刻には入間川付近に達せしものゝ如く、北条氏の将桜田貞国等と十一日小手指ヶ原に戦ひ、勝敗決せず、十二日に至て、貞国敗れ、加治二郎左衛門等先づ走りしと雖も、十五日分陪に戦ふに及び、義貞敗軍して掘金に退かざるを得ざるに至り、偶々投ずるものあるに依り、十六日早朝貞国の軍を突て、大に之を破り、急馳追撃して十七日藤沢に迫り、十八日遂に鎌倉に至りしが如し。
然れども太平記の載する所聊か疑ふベき点なきにしもあらず。
或は極端の論者は此合戦は武蔵野の蜃気楼なりと云へり。
今は太平記に従ヘり。
北条氏滅び後醍醐天皇一統の治世となりしも、天下不平の徒所在に出没し、建武二年七月十四日北条時行は兵を信州に起し、諏訪滋野の諸族に奉せられて、二十二日武蔵に入り、足利直義が派遣せし渋川刑都、岩松兵部等の軍を破り、女影ヶ原、小手指ヶ原及府中に戦ひ、破竹の勢を以て鎌倉に突進し、直義追へり。
之を建武二年の役とすベし。
一般には時行の乱を中先代の乱と呼ぶ。
其後尊氏鎌倉に叛し、義貞之を討て勝たず。
尊氏兵を将て京師を奪ひ、一たび九州に追はれしも、後大挙して東上し、正成戦没し、義貞破れ、南朝の勢危急なるものあり。
此に於て延元二年北畠顕家は義良親王を奉して、奥州より南下し、利根川に戦ひ、殆武蔵を席捲して、鎌倉を圧倒し、更に西に向ふ。
此時の合戦は直接郡内に及ばざりしと雖、八州の諸豪響応し鎌倉の足利義詮殆ど顔色無かりし也。
又太平記によれば新田義貞の次男徳寿丸上野に起て、兵を入間川に進め着到をつけたること見えたり。
其後北畠親房は東国の経略に従ひしも、高師冬等に妨げられて、志を伸ふる能はず。
既にして尊氏直義不和の事あり。
直義鎌倉に拠りて叛す。
尊氏之を伐たんがため、正平六年十一月関東に向ひ、遂に駿州薩垂山に囲まれしが、十二月下野の宇都宮氏は尊氏に応ぜんがため、武蔵に進出し、那波庄の戦あり。
先是、高麗彦四郎経澄等は宇都宮軍別働隊の一将として、十二月十七一日鬼窪(南埼玉郡)に旗を挙げ、十八日出発して、十九日羽禰蔵に難波田九郎三郎等を伐ち、其夜進て阿須垣原に陣し、甚だ戦功ありしこと新堀村町田氏文書に見ゆ。
羽禰蔵は羽根倉にて今宗岡村の小字なるベく、阿須垣原はそれ阿須崖原か、其時の敵手は武蔵守護代にして、直義方なる吉江新左衛門ならん。
正平六年十一月尊氏関東へ下るに臨て、仮りに和を南朝に請ひ、南朝も諜る所ありて之を許す。
既にして尊氏鎌倉に入るに及て、南朝の将士は東西同時に起て、尊氏及義詮を伐てり。
正平七年閠二月武蔵野の合戦は太平記にょれば、先是久しく上信越の地方に隠れし新田義宗、義興、義治は大命を奉じ、三浦石堂等旧の直義派の内応を得て、閠二月八日西上野に出て、やがて武蔵野に殺到せり。
然るに尊氏十六日を以て鎌倉を出て、武蔵に入り、三浦石堂の内応を知り、 二十日を以て小手指原に戦ひ、義宗一たび勝て、尊氏に迫りしも、後援続かず。
義興義治の軍は三浦石堂と合して鎌倉に向ひ、義宗遂に笛吹峠に退き、二十八日尊氏と戦ひ、笛吹峠を退却す。
此役宗良親王も後より進て、義宗の軍に会せしが如し。
然るに更に稍々正確なる史料によりて、太平記を批判するに、頗る修正せざるべがらざる所あるものゝ如く、議論紛々たれども、大日本地名辞典に載せたる吉田博士の断案は頗る傾聴すべきものあり。
依て大体其説に従て、太平記の記事を是正し置かん。
正平七年閠二月十五日(園太暦に従ふ)義宗等義兵を上野に挙げ、翌十六日武蔵に進出し、大凡府中付近と覚しき処より十九日附注進状を発す。
但其記す所誇大なるやの嫌あり。
一方尊氏は十七日(町田文書其他の軍忠状に従ふ)鎌倉を発し、狩野川即ち今の神奈川と信ぜらるゝ処に陣し、十九日谷口に進む。
然るに義宗の軍は此日義興義治をして鎌倉に向はしめ、義宗狩野川に進まんとしたりしが、二十日尊氏の軍府中に進出し来りしかば、義宗之を伐て人見ヶ原(若くは金井原と云ひ、若くは国府原と云ふ。
多摩郡にあり)に戦ひ、利あらずして、入間川に退く。
而して義興義治の軍は三浦石堂等と合して、二十三日鎌倉を取る、義宗宗良裂王を奉じて入間川に陣し、尊氏府中近傍に陣し、対峙すること一週日、二十八日に至て両軍小手指ヶ原に戦ひ、義宗退き、尊氏之を追ふて、漸次入間川原高麗原等の戦となり、遂に義宗志を得ずして、南朝の荘図空しく武蔵原頭の露と消えたりし也。
然れども小手指の一戦、太平記叙する所の花一揆の史話の如きは優雅荘烈、伝へて以て後世の士気を鼓舞するに足る。
尊氏武蔵野に克ちて、鎌倉を恢復し、二子基氏を残して西上せり。
基氏は戦勝の勢に乗じて、関東の将士を撫し、比較的よく士心を得たり。
曽て入間川に営し、入間川殿と称せらる。
正平十三年新田義興を矢口に誘殺し、十六年畠山国清の叛を平げ、十八年(北朝の貞治二年)八月芳賀入道禅可の叛を平げんがため、進発し、苦林野及岩殿山地方に於て戦ひ之を破り、与党を鎮定せしが、二十二年二月宮方平一揆、兵を起して川越館に拠る、基氏征せんとして病あり、依て上杉憲顕、基氏の子氏満を奉じて、川越を攻め、閠六月十七日に至て之を陷る。
蓋し宮方平一揆は所領の不平を直接の動機として発せるものゝ如く、川越氏の如き、山口氏の如きは其主なるものなりしに似たり。
而して基氏は既に四月二十六日を以て卒したり。
基氏卒して氏満後を嗣ぎ、幼なりしと雖、補佐其人を得て幸に大過なく、関東に於ける足利氏の基礎牢乎として抜くべからざるに至れり。
唯一の小山の反あり。
氏満屡々鎌倉を発して、府中に陣し、或は進て村岡(熊谷町の南)に陣せしことあり。
小山の乱は南北朝を終り、応永四年に至て全く平定せり。