氏満応永五年卒し、満兼立ち、自ら公方と称し、執事を管領と呼ばしむ、此時に当て上杉氏既に山内及犬懸の二家あり。 既にして満兼応永十六年卒して、子持氏立つや、驕傲にして軽躁、二十三年に至て遂に犬懸禅秀(上杉氏憲)の変あり。 此時入間川は数次合戦若くは対陣場となれり。 然るに室町には義持及義教頗る関東の権を殺がんの志あり、持氏は又義教の将軍たりしに平ならず。 此に於て上杉憲実其邑白井に退き、持氏之を攻めしも、京師の討伐軍来るに及て、持氏遂に勢屈して自刄す。 時に永享十一年二月十日也。 而して其子春王等結城氏に依りしものも、嘉吉元年に至て咸捕へられ殺さる、上杉は犬懸倒れて扇谷新に起れり。