公方対管領

此後関東は主なかりしかば、宝徳元年上杉房定等、持氏の遺孤永寿王を推戴し、之を成氏と称す。 上杉憲実遁世し、扇谷持朝入道して河越館に退く。 成氏上杉氏を以て父の仇とし、里見結城諸氏を用ゐしかば、先づ上杉氏の臣長尾太田との軋轢始まり、次で上杉氏も成氏と対抗し、争乱数年成氏遂に古河に走り、康正元年より三年に至るまで分陪、岡部、騎西、市川、深谷等諸処に戦あり。 長禄元年に至て扇谷持朝は河越に築き、太田資清は岩槻に築き、太田持資は江戸に築き渋川義鏡を蕨に奉し、次で足利政知を堀越に戴きて古河に対するの計を為せり。 室町幕府は屡々古河討伐の命を関東奥羽に出せり。 かくて上杉の宗家山内は上野白井に根拠を設け、藤岡、八幡山、深谷等の諸城を支持し、扇谷は河越に居り、岩槻、蕨、江戸等の諸城を有して、古河に備へ、古河は羽生、忍、騎西、菖蒲、関宿等に構へ、而して両軍の対抗陣地は、白井と古河の中間、児玉郡東五十子たりし也。 之を以て文正元年の頃第一次対陣あり。 文明三年第二次対陣あり、伊豆方面にも戦あり、文明九年第三次対陣あり。 既にして山内顕定の臣長尾景春鉢形に拠り、南武の豊鳥、練馬、相模の小沢、横山、小机、丸子、平塚、溝呂木、小磯等と通じて上杉氏に叛し、一時頗る勢力を振ひしも、太田持資等克て之を平げたり。 此役の始川越は太田図書助資忠、上田上野介松山衆を籠め、長尾方は若井(?)に陣して之に対し、やがて勝原(ヌグロハラ?)に戦て長尾方敗れたり。 而して始終の経過行動に見る時は川越は扇谷の策源地たりしの観あり。 而して此時上杉は古河と和したり。