山内対扇谷

江戸を築城し、長尾の乱を鎮定し、雄名を関東に轟かしたる太田道灌は後兵を下総に用ゐて、益々偉功を奏し江戸、川越を堅くして秘に山内の変に備へしが偶々扇谷定正の忌憚する所となり文明十八年七月遂に其殺す所となれり。 而して翌年より山内対扇谷の激裂なる対抗始まり諸所に合戦あり。

扇谷定正は河越に子朝良及曾我兵庫頭を置き、江戸に曾我豊後守を置き小田原に大森式部を置て山内に当らんとせり。 河越に対して山内が上戸に砦を設けたるが如き、此時也。

長享二年定正松山城に拠り顕定兵を卒て之に向ふ延徳二年定正古河公方の援を得て高見原(比企郡)に顕定を破り、明応三年定正武州関戸の塁を破り、伊豆の北条長氏と久米川に会し、共に兵を卒て高見原に陣し、顕定と荒川を隔てゝ相対す。 而して定正陣中に没せり。 定正が長氏の援を得たるに当て、顕定は政氏の援を得たると覚しく、明応四年十月政氏顕定を救けて高倉鶴島村)に陣し、五年五月柏原に陣す。 蓋し顕定川越を攻め、政氏此処に拠りて相州地方よりの来援に備へしものならん。 永正元年九月顕定復川越を攻む抜けず依て江戸を囲む。 今川氏親北条長氏兵を府中に出して扇谷を救ふ。 其先鋒増形日東村)に陣せりと云ふ。 顕定之をきゝ軍を返して立河原に戦ひ敗蹟せり。 かくて道灌没後、両上杉互に争ひ約二十年を経て永正二年相和したる時は、北条長氏既に小田原に拠りて、勢威漸く旺盛ならんとす。