後北条対両上杉

北条長氏は延徳三年堀越茶々丸を殺して伊立を取り、明応四年二月、大森実頼を訛て小田原を奪ひ、永正元年九月今川氏親と立川に扇谷朝良を扶けて、山内顕定を破りしが、其後専ら相模の平定に力を用ゐ、山内は越後に長尾の叛あり、古河は政氏高基父子の不和あり、高基は北条氏に依らんとし政氏は里見上杉に依る。 而して政氏久喜に退隠せり。

永正十六年長氏卒し、氏綱嗣ぎ、鋭意武蔵の攻略に着手し、一年を隔てゝ、大永元年には婚を古河高基の子晴氏に通じ、両上杉の形勢を窺ふと切也。 既にして大永四年江戸城の将士内応せるものあり、氏綱直に赴て之を伐ち、江戸高輪に戦て、朝興を破り、城に入るを得ずして川越に奔らしむ、其後朝興恢復の師を起せしも志を得ず、天文六年川越に卒す。 子朝定立ち、叔父朝成之を扶け、勢力の恢復を計り、先づ深大寺城を築て北条氏に当らんとせしが、氏綱急に江戸より川越に向ひ、上杉氏の軍と三ッ木ヶ原(堀兼村)に戦ひ、大に之を破り、朝成を擒にし、朝定を走らしむ。 朝定川越に入りしも支ふる能はず、松山に逃れ、其城将難波田弾正父子等と川越を復せんとせしが、反て氏綱に囲まる、然も氏綱急に降し難きを見て、去れり。

山内憲房は鉢形にありて扇谷の後援に任ぜしが、大永五年病没し、遺臣古河政氏の子息寛を迎へて主とせしも、永続せずして止み、憲房の子憲政嗣ぐ。 憲政は放縦なり。 天文六年川越陥り、上杉氏危急なるを見、恢復の師を出すに決し、切に古河晴氏を説きて北条と絶たしめ、天文十四年九月憲政朝定の兵八万川越を囲み、砂窪(福原村)に陣す。 十月晴氏も亦至る。 翌年四月北条氏康八千の兵を以て川越に来り、上杉の軍を夜襲して、大に之を敗り、城兵は睛氏の軍を突けり。 朝定、難波田父子等戦死し、憲政平井に逃れ、晴氏古河に走る。 氏康勢に乗じて松山を屠り、勢威関東に振ふ。 秩父の藤田氏、瀧山の大石氏等咸氏康に属せり。 独り岩槻の太田三楽志を上杉氏に寄せ、一たび松山城を恢復せり。

かくて天文二十年氏康上武の境に迫るに及び上杉憲政越後に逃れて、長尾謙信に依りぬ。 上杉氏殆ど滅べり。