氏康は更に古河公方、里見氏等に対して夫々手段を講ずる所あり。 又諸子を各地に派して、小田原と気脈を通ぜしめ、かくて関東の西半を奄有したりしも天文の末より弘治永禄に至るまで、甲越両州の勢力亦関東に及び、上武の地方は屡々三氏抗争の地点となり、松山、羽生、忍、深谷諸城の如きは所属一定せず。
天文二十三年氏康は信玄と結びて謙信に当り、謙信も関東に下り、一たび小田原を囲みしも、志を達せざりき、永禄十二年に至り信玄は盟約を破棄し、八月兵を上野に入れ、武蔵に用ゐ、鉢形を攻めて、更に小田原に向て南下し、郡内の地をも通過せり。 而も小田原陷らざりき。 かくて上杉北条の連合成りしが、元亀三年に至て復破れ、北条氏は鋭意して上野の蚕食に従ひぬ。