北条氏治下の入間郡

斯の如く辺境には攻争頻りに行はれしも、郡内の地方は天文十五年以来殆ど確実に北条氏の手に保有せられ、庶民太平の善政に頗る繁栄に向はんとしたるものゝ如し、即ち川越城は大導寺駿河守に保有せられ、川越城下町も発達し、柳瀬村城には瀧山城主北条氏照の麾下太田氏あり。 柳瀬川付近の地漸く発展に向ヘり。 其他北条役帳によれば郡内至る所、何れも北条麾下の将士に知行されたりしを知る。 当時入東部、入西部の目あり。 蓋し入間を二分せし也。 而して知行高は貫文を以てあらはせり。 (役帳に見えたる所は各町村の部に出せり。 尚役帳は永禄二年二月頃の現在なるが如し)

天正十八年豊臣秀吉小田原を囲むに及で、川越も柳瀬も共に戦なくして開城せり。 川越の大導寺駿河守は上州松枝城を守り、松枝開城するに及で、川越をも開城せしめたり。 而して七月十九日を以て死す。 其霊牌名細村上戸常楽寺にあり、墓石もあり。 然も川越容易に降ると雖、松山陷らず、山道口の大将前田利家等之を攻む、越生町上野医王寺には利家陣地たりし伝説あり。