江戸時代の村治に関しては三芳村郷土誌に載せたる所、比較的詳細なるが如し。 取捨して左に掲ぐ。
徳川時代の村治は一村毎に名主なるものありて之を統べ治め。 其下に組頭ありて、名主の事務を助く、組頭は一村に概ね二名、大村には往々三名あり。 又其下に百姓代あり。 百姓代は一組必一名ありて、小前百姓を代表し、名主組頭に向て意見を陳述し、又は其事務を監視し、及組内の事務を扱ふ。 此外隣保(五戸ヲ一組トシ之ヲ五人組ト云)に一人の長を置き、之を判頭と云ひ、隣保の事務を扱ふ。 而して此等の職は総て世襲にして大なる非違あるにあらざれば、代るとなし。 故に其権力甚大、能く配下を威圧せり。 然れども其配下より過悪の生ずるを以て己の不名誉となすが故に常に百方注意して、之を戒めたり。 之を以て平素権威を振ふも下怨恨せず。 常によく相親しめり。 明治初年名主は戸長、組頭は副戸長、百姓代は総代と改まりしも、其職務は略々相似たり。
納租期は年三回にして毎期納額に一定なく、人民の任意に従ひ、最末に至り完納せば可なりとす。 この最末期を皆済と呼ベり。 併し毎期の納額は其率(全額の三分一)に超過せしめんとを勤めしめたり。 是れ皆済期に可成其苦を滅ぜしめんがためなり。 而して納租の方法たるや毎戸納租受領帳を製し置かしめ、納租期に至れば期日を定めて名主より之を通告し、当日人民は金額と受領簿とを携へ各自に名主の家に至り之を納め受領簿に記入捺印を受く。 其日は村吏員、皆出席し、事務をとれり、人民の納租してより之を領主若くは代官所に納むる間は夫役を命じて毎夜名主の家を守護せしむ、是れ公金を重んずるの意に出づる也。 又下小前に於ても納租は最大の義務とし苟も人に後れさらんとを欲し、先を争つて名主の門に至り、其開くを待てるものありしと云ふ。
戸籍は当時人別帳と称せり、調査年一回にして歳未に行へり、其方法は期日を定めて家長を名主の家に召集し、人別帳に記載の人名の存否を訊し、若し出生死亡婚嫁等の異動ある時は家長の申立によりて訂正せり。 故に出生の如きは二三年の後にあらざれば載するとなし、但死亡に至りては其年々に申立て除籍せられたり、是れ人別税と称して人頭税を課せられたれば損益の関する所自ら此に至れるなり。 婚嫁には送籍受籍(おちつきと云ふ)名主にて行ひがれば概ね其時々に行はれたり。
徭役に三種あり、曰く村役、曰く領主役曰く公儀役是也。 村役は毎戸一人を順次に出し村の事業に服せしめ、領は領主の参勤交代の時其荷物運搬等に従ふ、例へば三芳村の如きは大井駅に出役せる故常に之を大井役(ヤク)と呼べり、公は多く将軍日光社参の時勤めたるにて例へば三芳村よりは多く浦和駅に出役したる故浦和役と云へり、領公は屋敷割にて、一屋敷(凡反別六町乃至三町)より一人を出す、此外又伝馬役なるものあり、馬匹を出して役に服す、併しこは各地より馬匹を出すと不便なるを以て伝馬宿、入用として金納し常傭となしおけり。
領主の村を治むるの法は地方廻(チカタマハリ)なる吏ををき常に地方を巡廻せしめて其状況を視察し且非違を正さしむ、又其下に陸引(オカヒキ)(囚人ノナハ取ル役ナリシモ後ニハ刑事探偵ノ如クナレリ)と云ふものありて常に町村内を徘徊巡視し、悪事を探偵逮捕せり、此外に隠密なるものありて専秘密偵に従事す、此隠密は独り人民の非違を探知するのみならず、村吏官吏の汚行にも及べるを以て人々大に恐怖したり、又此外に公儀即幕府より出づる関八州取締なるものあり、これは御領私領の差なく人民官吏の別なく苟も悪事汚行あらば容赦なきを以て皆八州様と称し鬼神の如く畏怖したり。