足利中世までの川越をかりに第一期川越と名け、戦国乃其以後の川越を第二期川越と称せんか、第一期川越は正平二十二年宮方一揆の鎮定を以て殆ど一時歴史の地平線下に没したるが如く、其の後九十年を経て長禄元年に至り第二期川越の序幕始て開けたりと称すべし。 然るに茲に中間の時代に当りて、(何れかと云へば長禄に近けれども)第一期川越と第二期川越との連鎖の位置に立ちし一将あり。 上杉修理大夫持朝也。
鎌倉大草紙に曰く、(宝徳二年)其頃山内は憲忠若輩故、長尾左衛門尉景仲、諸事を名代に執行す。 扇谷は修理大夫持朝なり。 是も古持氏滅亡の時憲実に一味の最なれば、世の中□大切に思ひければ、出家して道朝と号し、子息弾正少弼顕房に家督を渡し、憲忠を聟として、武州河越へ隠居してありける。 然れども顕房若年の間、家臣尾越(今の越生也)の太田備中守資清政務に変りて諸事を下知しける。 云々と。 世人往々にして川越の城は太田道灌の築城と称すれども、寧ろ上杉持朝を以て其人なりとすべきに似たり。 大草紙は曰く長禄元年四月上杉修理大夫持朝入道武州河越の城を取立てらる。 太田備中入道は武州の岩槻の城を取立て、同左衛門大夫は武州江戸の城を取立てける。 と。 蓋し当時の史書として大草紙は第一等に位せり。 「故に之に従ふを以て最も可なりとすべき也。 然るに永享記等には、長禄元年管領広威院殿(持朝の法号なり。 顕房の法号と誤りしならん)年十四におはしけるが太田入道命じて武州河越の南仙波の城を今の河越三芳野郷に移し、要害の縄張畢りて即ち城を築きけり。 と然れども仙波の城なるものに関しては其徴全く存せず、殊に永享記の類は稍々晩出の書にして、大草紙に比し、価一等を減ずるもの也。 故に之を採らず。 凡て大草紙を以て拠となし、第二期河越の旧城も仙波にあらずして仮りに上戸にありと定めんとす。