本町
大手正面、東西の大路にて、後北条の頃までは本宿と称せしが、徳川時代城下の繁栄に件ひ、何時しか本町と唱へ来れり。 文化の頃人家六十余あり。 北条氏の時代には江戸町も本町即本宿の中なりしならん。
城下町は城の西及南に接続し、南北約十町、東西四五町、其中、 本町、 江戸町、 高沢町、 南町、 北町を以て上五丁町と云ひ、 鍛冶町、 鴫町、 上松江町、 多賀町、 下町を以て下五丁町と云ひ、 併せて之を川越十個町と称す。 幕末の頃は上下の五個町を称すること稀にして、一般に十個町と称し、十個町内に居住するものは、大に誇りとせりと云ふ。
十個町の街道も松平伊豆守の頃大に改修を行ひ、屈曲を直し、狭隘を広め、外観大に整へり。 而して各家に軒先を附す。
今十個町の個々に就て少しく説明を試みん。
大手正面、東西の大路にて、後北条の頃までは本宿と称せしが、徳川時代城下の繁栄に件ひ、何時しか本町と唱へ来れり。 文化の頃人家六十余あり。 北条氏の時代には江戸町も本町即本宿の中なりしならん。
西大手より南へ走れり。 元本宿の中に属し、一たび東町と称せしことありしが、やがて江戸町と唱ふるに至れり。 蓋し西大手を出でゝ江戸に赴かんとするもの、必ずや先づ此町を通過せざるべからず。 江戸町の名偶然にあらざる也。 文化の頃人家約六十、問屋ありて諸方人馬の継立をなせり。 或は曰く此街市中第一の繁華なるにより旁以て江戸町と唱へ習はせりと。
札の辻より北に当るを以て北町と称せりと云ふ。 更に以前は東明寺門前町と称し、東明寺惣門の跡は幕末の頃まで町内東側門屋と称する家の辺に存せりと云ふ。
喜多町の北に続き、土地低きを以て下町の称あり。 文化の頃戸数四十七。
本町の西に続き、竹沢九郎と云ふ人起立せる処なるを以て竹沢町と称し、高沢町と訛せりと云ふ。
札の辻より南にあるを以て名く。 徳川時代の初めには灰市場とて灰を販きしもの居住せしが、幕末の頃には全町第一の繁華の巷となれり。
南町の南に接し、 天文弘治の頃小田原属城の時に当て、 鍛冶平井某相模国より此処へ来住し、 天正の頃平井の弟子鴫惣右衛門、鴨工通、加藤甚兵衛などを始め十余人皆此街に居る。 依て鍛冶町と名けたり。
初馬場なりしが、後鴫善太と云へる鍛冶草創して町とせり。 依て鴫町と云ひ、後志義町と記す。
元来桶師取立の町なるを以て、箍町と名け、後多賀町と記す。
江戸町の南に続き、 往古此辺より仙波地方へかけて渺々たる大沼にて、 漁人此より鱸を得たり。 其味美にして漢土松江の巨口細鱗にも劣らずとて松江町と称せりとの伝説あり。 俗説採るに足らず。 蓋し松江町は松郷の地と関係あり。 然れど郷江音相通ず、若くは草体相似たりとの説は如何にや。 松江町とは寧ろ松郷に因みて人為的に指定したる名称ならんと信ずる也。
養寿院門前町、 蓮馨寺門前町、 行伝寺門前町、 妙養寺門前町を四門前町と云ふ。 何れも市店軒を連ねたり。 養寿院門前町に属するは 南町よりの入口、 北横町、 高沢町よりの入口、 杉原町近辺の三方面にして、 行伝寺門前町は南町より入りて大門に当り、 南に折れたる町を云ふ。 又それより杉原町へ赴く処を新門前と云ひ、元和年中に開けたりと云ふ。 妙養寺門前町は志義町突当より門前の通、 及六軒町の横町を西へ折れて今の境町へ出る処なり、 但其片側だけを称す。 蓮馨寺門前町は猪鼻町の南の続きにて、 殆ど今の連雀町に該当し、惣門より東を堅門前と云ひ、新田町の方へ赴く通を南門前と云ふ。 此町文化の頃人家百十八軒ありしと云ふ。 鉦打町も此町の一部なりき。