山田

山田は旧制に従て志垂、網代、向小久保、宿粒を其小字とす。 地域大也、人家百三四十戸。 村役場及小学校は志垂にあり。

赤城神社

網代にあり。 古伝説に曰く。 往昔本村の人岩沢太郎左衛門なるもの比叡山延暦寺に鎮坐せる、日吉大権現を分祀し、旧下寺山村地内五段十畝歩を社地とし、修験教学院を別当とす。 文禄二年癸巳三月十五日再び社殿を造営したりしが、此地たる人家を去る約十町余、不便少がらざるを以て安政四年丁巳三月有志者教学院栄覚と議り、同院地内に遙拝所を創立す。 同六年己未七月洪水氾濫し、 寺山堤塘破壊し、 其水害全村に及び、本社の旧記亦悉流已に帰せり。 明治元年戊辰九月二十八日教務伝達所を以て更に日吉神社と改称し、尋で別当復飾し、社掌となる。 三十二年己亥八月字蔦木町に地を購ひ、四十三年一月十四日 福田村社赤城神社、宿粒八幡社、向小久保八幡社を網代日枝神社へ合祀し、村社となし。 社名を赤城神社と改めたり。

安養院

志垂にあり役場の南、街道の傍にあり。 天台宗仙波中院に属し、九品山極楽寺と云ふ。 歴代記鎌の中に寛永八年秀海と記せしものありしと云ふ。

浄国寺

宿粒にあり。 時宗にして、天王山清流院と号す。 開山は他阿真教にして、元応元年示寂なりと云ふ。

向小久保

向小久保は川越に最も近く、川越町小久保より分郷せる処なり。 正保の改には載せず。 元禄の改に至て始てあらはれたれば、其間に分村せしものなるべし。 今は大字山田の一小字なり。

其八幡社は雀森八幡と云ひ、元小久保石原町辺の田圃中にありしを移せるなりと云。 今は網代赤城社へ合す。