村役場及小学校敷地の西北隅に其遺蹟を残す。 之を舟塚と名くる所以は往昔洪水ありし時、村民舟を此塚に繋ぎ、飢餓を免れしによると云ふ。 或は曰く塚は元亀中道祖土某が宝物を埋蔵せし所にして、亨保の頃名主次兵衛之を発掘せしに、石棺を発見し、蓋をとれば太刀等あり、即ち神と崇めたれど、次兵衛病で死し、其女十二歳にして尼となり円乗坊を立て、父を以て開基となすと。 明治二十年小学校建設に際し、村民舟塚の大部を崩し、地を平にして、敷地を作りしが、当年の石棺再びあらはれ、長二間、巾九尺にして二室に分れ、一室には太刀、甲胄、金環等を存し、室には貴女の冠等を遺したりきと云ふ。 依て塚の一部を存して石棺を之に埋め、祠を立て、舟塚神社と称せり。 舟塚は勿諭古墳に外ならず。