南畑村は元難波田と書し、又難畑に作る。 偶々荒川、新河岸川水害を与ふると頻々、為に改めて南畑となせりと云ふ。 其土人が官許を得たりしは安永元年なりしとかや。
鎌倉時代のはじめ、七党村山党の金子家範の子高範、難波田氏を称せしと見ゆれば、その頃より或は此処に住せしならん。 難波田氏代々相嗣ぎ、土地の豪族たりしと覚しく、応永中の文書に
寄進 鶴岡八幡宮寺
武蔵国入東郡内難波田小三郎入道諸事
右同国六郷保内原郷替所寄進之状如件
応永七年十二月廿日左馬頭源朝臣満兼判
武識国入東郡内難波田小三郎入道諸事早荏彼所任御寄進之旨可致沙汰付下地
於鶴岡八幡宮雑掌之状依仰執達如件
応永七年十二月廿日上杉右衛門佐氏憲(法名禅秀)沙弥判
兵庫助入道殿
武蔵国入東郡内難波田小三郎入道諸事任去年御施行之旨荏彼所沙汰付下地於
鶴岡八幡宮雑掌候畢仍波状如件
応永八年二月廿九日上杉中務少輔朝宗(法名禅助)沙弥判
(右文書三通風土記に従ふ)
とあり。 難波田氏は鎌倉管領に事へ、次で両上杉氏勢力を占むるに及び、扇谷に臣事し、天文の頃弾正憲重あり。 松山城主となり。 川越夜戦に死せり。
両上杉氏倒れて後北条氏の世となるや、此辺は上田左近の知行地となりしが如く、役帳に「上田左近百五十貫文入東難波田乙卯検地」と見ゆ。 天正十八年江戸時代の序幕開かるゝや、東天久保は終始川越領となり、上下及新田南畑は始め川越に属し、宝永以後支配地となる。 支配地は明治元年知県事、二年品川県、韮山県に属し、川越領は二年川越藩、四年川越県となり、合して入間県(二大区四小区、大久保は二小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に隷し、十七年上南畑連合、二十二年南畑村を組織せり。