伊呂波樋

松平伊豆守、安松金左衛門等をして多摩川上水を竣工せしひるや、幕府は其水の一部を伊豆守領地内に通ずるを許下したるを以て、茲に野火止用水を穿ちて志木町まで引き来り、之より新河岸川に之を落したりしが、其後白井武左衛門宗岡村を知行するに及び、恰も伊豆守が宗岡新田を領するを幸、之に説て、雨水の一部を引くに決し、万治二年志木町より掛樋を以て新河岸川の上を通じ、之を村内の水田に沃けり。 其掛樋の継合四十八あり、依て伊波呂樋と称し、其構造巧妙を極めしと云ふ。 然れども明治三十三年以来、鉄管を以て之に代へ、水圧を利用する科学の応用依然として白井武左衛門苦心の効益を村民に潤はしめつゝあり。