福岡

福岡は村の中央より東部に及び、戸数一百余、中福岡も元は福岡と称し、七八十年前まては福岡を上中下三区に分ちしが、上下二区は一人の名主にて支配したりしかば、中福岡のみ自ら別村となるに至れり。

氷川神社

字観音前にあり。 長宮氷川神社と呼ぶ。 長徳元年出雲大社より勧請すと称すれども詳ならず。 台門の道程四町十六間の長さに及ぶ。 故に名けて長宮と称すとなすが如きは俗説なるべし。 古は長宮千軒町とて、社頭華表ノ前、繁華なる町家ありしも、戦国の頃離散せりと伝ふ。 天正十九年、慶長十四年、元和二年以下社殿数度の造修営を行ひ、明治四年川越県郷社となりしも、五年入間県の時、改めて村社に列せらる。 福岡中福岡福岡新田の鎮守也。 三大字の小社は既に大抵合祀せられたるが如し。

薬王寺

曹洞宗南畑村東大久保長谷寺末、明暦三年全的の開山にして、六世石雲の時、長谷寺五世昌朔を法流開山と仮称せり。

西養寺

瀧にあり。 川越喜多院に属す。 等覚山と号す。 一たび廃寺となりしも、明治十六年より復本尊を置く。

権現山

瀧にあり。 徳川家康の休息せし所と云ひ伝ふ。 事実詳ならずと雖、塚上に小碑を設けたり。

城山

天神廻りと称する処にあり。 周回陸田にして、一小古塚あり。 北条役帳に出でたる富永善左衛門の屋敷跡と称せられ、塚の近傍に其屋敷鎮守たりし天神祠ありしも、明治四十二年村社氷川に合祀せり。 塚の西「戸開」と称する処は大手跡なりと云ふ。

粟久保

粟を作りしにより地名に此称あり。

吉野氏

現主球之助、家に天正十八年庚寅の文書三通及備前長船の鑢?を蔵す。 文書は草体也。