砂久保

砂久保は今福の東に当り、高階村砂新田に接近せる一部落にして、土地稍低し。 東西八町南北四丁余、南方に飛地あり。 今福の原と境界錯綜せり。 戸数二十八九、恐くは三十に満たざるべし。 此地天文十四年上杉憲政、河越城攻撃の時、陣を設けし処と称せられ、今に其蹟も存すと云ふ。 風土記砂久保村小名の条に、竹原と記し、下に「里人の説によるに村内を概したる惣名なりと云へば砂久保村の開けざる前原野なりし時の名と見ゆ。 小名とは云ひ難く、村の古名とも云ふべきか」と註せり。 砂久保村今も別名を竹原と云ふ。 但土人の発音タケハラときこえずタカラときこゆ。

稲荷神社

砂新田に出づる街道の東端に位す村社也。

上杉憲政陣所蹟

村の南方に位し、平野神社より四五町隔たれり。 然れども是れ後の読書家が定めし処にや。 風土記に曰く。

今世に聞へし河越夜軍の時の陣跡…定かならず。 小田原記等を見るに、天文十四年九月二十六日上杉兵部大輔憲政八万余の大軍を将て、砂窪に旗を立て、先勢をして河越を攻めしむ。 又古河の睛氏は憲政に加勢として同き十月二十七日河越に出馬ありて両軍をもて攻戦すと雖、城主北条上総介綱成大剛の勇士にて、僅に三千の兵を以て昼夜防ぎ戦ひ、明る十五年四月に至りても尚落城の色もなかりしが、されども兵粮乏しくして、饉飢に臨める由北条氏康伝聞て、乃ち八千余騎を率し、同月二十日の夜半、砂窪の陣を襲ひ討ちしに、憲政の軍勢大に敗北せし由、載せたり。 此砂窪は即当村の事なり。 今土人に問ふに陣せし所及合戦などの事凡て伝るとなし。 是前に云へる如く、此辺元広野なりしを、近き世に開きし村なれば、古の事は伝へざるなるべし。