村の南方に位し、平野神社より四五町隔たれり。 然れども是れ後の読書家が定めし処にや。 風土記に曰く。
今世に聞へし河越夜軍の時の陣跡…定かならず。 小田原記等を見るに、天文十四年九月二十六日上杉兵部大輔憲政八万余の大軍を将て、砂窪に旗を立て、先勢をして河越を攻めしむ。 又古河の睛氏は憲政に加勢として同き十月二十七日河越に出馬ありて両軍をもて攻戦すと雖、城主北条上総介綱成大剛の勇士にて、僅に三千の兵を以て昼夜防ぎ戦ひ、明る十五年四月に至りても尚落城の色もなかりしが、されども兵粮乏しくして、饉飢に臨める由北条氏康伝聞て、乃ち八千余騎を率し、同月二十日の夜半、砂窪の陣を襲ひ討ちしに、憲政の軍勢大に敗北せし由、載せたり。 此砂窪は即当村の事なり。 今土人に問ふに陣せし所及合戦などの事凡て伝るとなし。 是前に云へる如く、此辺元広野なりしを、近き世に開きし村なれば、古の事は伝へざるなるべし。