大井村
総説
現状
大井村は郡の東部に位し、川越町を去る二里、所沢町を去る約二里半許の処にあり。
北に高階村、東は福岡鶴瀬二村、南は三芳村、西は福原村に接壞す。
川越東京街道、大宮所沢街道村内に於て交叉せり。
土地概して高燥なれども、東方には往々窪地ありて、福岡鶴瀬地方の低地と相通ぜり、細流数条之より発して、東に流る。
土地一般に火山灰土にて瘠土なれども、東京街道の東は漸次砂質を交へて地味肥え、其東端に至れば肥沃なる壌土帯となる、大麦小麦に適す。
反之西は漸く灰質を増し、全く肥料によって箒蔗、甘藷、瓜類、麦類を養ふ。
織物業及養蚕も近来稍ゝ盛也。
殊に土地の名物たる箒の製造は文化文政の頃に始まり、大井箒の名甚だ高し、原料の如きも近傍諸村の外千葉茨城の地方に仰げりと。
一年の製造額四万円を越え、関西地方にまでも供給すと云ふ。
戸数四百三十、人口三千三十五。
大井、亀久保、苗間、鶴ヶ岡の四大字に分る。
川越町まで馬車の便あり。
沿革
万葉の古歌「入間路の於保屋我原」云々は即ち大井ヶ原なりと称するものあれど、容易に信ずべからず。
廻国雑記に大井河原と云へる所にて、「うち渡す大井河原の水上に山やあらしの名を宿すらん」とあれど、何れの処を指せしや詳ならず。
大井は元大井戸ありしを以て名くと云ふ。
大井村各大字の内に於て、大字大井は比較的早く開けたるものゝ如く、七党系図村山党に大井五郎大夫、大井三郎あり、亀久保も亦之に次で開けしものならん。
降て天正七年の文書に大井郷と出でたり、亀久保は文禄と覚しき頃、鉢形城の浪人、三上山城に開拓せられしとあり。
鶴ヶ岡に至ては正保以後の新開也。
天正十八年以後、采地となり、後川越領となる。
明治二年川越藩、四年川越県、入間県(二大区三小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に隸し、十七年大井苗間亀久保鶴ヶ岡及藤間連合を作る。
二十二年大井村を成す。
大井は村の南部に位し、人家川越街道を挟で相連り、一小宿駅の観を成す。
戸数百五十。
村役場、小学校、郵便局は此処にあり。
東原にあり。
創立年代不詳。
村社にして八雲、稲荷、久田、高根、金山の諸未社を有す。
宿の東に当り、高台の下、低地に居り、清泉湧出し、池水透明、社地として最も可、其古家人口に膾炙せるも宜なりと云ふべし、但近年漸く頽廃に向はんとす。
下組にあり。
天台宗、灌頂院未也。
天龍山徳性寺と称す。
秀山律師の開創と伝ふるのみにして、年代も詳にせず。
十四世祐円中興し、万治三年寂せりと云ふ。
現住は三十二世也。
創立以来火災に罹ると二回。
寺に弘安四年十一月と記せる一板碑あり。
本乗院の東南、街道を隔てゝ旧稲荷の社跡あり。
数年前此辺より板碑数基を出せりと云ふ。
宿の西方畑中に一二の古塚あり。
上に石塔を立てたるものあり。
市沢(イツサハ)には金山あり。
鉄糞出づ。
鍜治の居りし処ならん。
亀久保は、大井の北に位し、街道を挟て人家連る。
戸数百六十。
此村の開発は武蔵野地方にて比較的古かりしためにや、武蔵野開墾地方に於ては頗る重要なる開係を有す。
例へば上富村地蔵堂の如きは亀久保の地蔵院と、大塚の西福寺との共同管理なるが如し。
亀居にあり、街道の西にあり。
慶長三年の創立にして、村社なり。
東久保にあり、真言宗、大和田普光明寺の未にして、正和三年十一月覚応の創立なりと云ふ。
享保元年修繕あり。
本堂あり、薬師堂(?)あり。
然れども今や住僧なし。
木宮山薬王寺と称したりとかや。
上富地蔵尊は元此寺と西福寺にて管す。
今は此寺の世話人のみ赴くと云ふ。
亀久保の東北方、畑中に二三の古墳あり。
其大なるを狐(おとか)山と云ふ。
此辺矢根石出るとありとかや。
苗間は村の東南隅に居り、別に飛地は東京街道の辺に及び、大井と境界頗る錯綜せり。
戸数七十三。
神明後と云ふ処にあり。
沿革不詳。
熊野社、天神社等を末社とし、神楽殿等あり。
整へり。
鶴岡(ツルガヲカ)は村の北部に位し、東京街道を挟て人家多し。
正保以後元禄以前の開発にして、隣村に亀久保あるを以て、鶴岡と名けたりとかや。
戸数三十三、
上組にあり。
沿革不明。
但開墾以後の勧請也。