地蔵堂

木ノ宮にあり。 多福寺の東南僅に一町ばかり、武蔵野木ノ宮地蔵と呼ぶ。 俗に有名なる富の地蔵是也。 口碑によれば、坂上田村麿奥羽征伐の時、此地に来て天変に遭遇し、地蔵菩薩を祈て其厄を免れ、且其霊護によりて賊を平げたりしかば、凱旋の後奏問して、此地に堂を建て、木宮地蔵奪を勘請せりと。 故に「延暦二十四年九月上旬出現」と記せり。 或は一説に開基を六郷伊賀守と称し、或は田村麿の後、建仁元年二階堂隠岐入道(頼朝の幕下)再建せりとも伝ふ。 何れも恐らくは事実にあらざるべしと雖、要之古き創立也。 武蔵野話によれば

留村は上中下あり。 其上留に古より木ノ宮地蔵尊の堂あり。 七月廿四日地蔵の区(マチ)とて殊の外賑ひ、八幡公(角力)などあり。 古より南北武蔵野の半なる故、此地を地蔵野と云ひ、又中武蔵野と云ふ。 昔は大塚亀窪村の原なりと云ひ伝ふ。 地蔵は亀窪木ノ宮地蔵院大塚村木ノ宮山西福寺の両寺之を守る。

と。 今も亦斯の如しの野話は又地蔵の本尊に就て古老の間に行はるゝ一説話を掲げたり。 其説によれば、中古地蔵の森頗る繁茂せし頃、出でゝ追剥強盗奸淫等を行ひしものあり、此に於て村民地蔵を土中に埋めて之を罰せりと。 然るに其後再び之を堀出さんとするもりありしが、未だ本尊に堀当てざるに日必ず暮れ、翌朝再び堀らんとすれば、既に埋まりて、前日の労空しかりしと云ふ。 堂は亀窪大塚に於て之を管理し、境内広闊、堂宇壮大也。 此辺甘藷の名産地なれば、近来境内に碑を立て之を後世に伝へんとするの計ありと云ふ。