沿革

入曽の地は天正の頃、既に能く開けたるものゝ如く、同十九年の水帳に北入曽と記せるを以てすれば、勿論此以前より南北二村に分れしを知るベし。 水野に至ては其開発他の武蔵野地方と同じく、検地は寛文二年(風土記に元禄五年と云へるは第二次の検地にや)に於て行はれたり。

入曽は大抵支配地若くは采地たり。 (北入曽は田安家の領たりしとありき)故に明治元年知県事に隷し、二年品川県、韮山県となり、水野は川越領たり。 故に明治二年川越藩、四年川越県となり、 同年入曽を併せて全村入間県(三大区五小区、 水野は六小区)に入り、 六年熊谷県、 九年埼玉県、 十二年入間高麗郡役所々轄、 十七年堀兼村青柳加佐志東三木を加へて、 北入曽外五村連合となり、二十二年に至て三村を以て入間村を編成す。