迯水の真相

古来有名なる武蔵野の迯水は水野にありとせらる。 源俊頼が、「東路にあるといふなる迯水の、にけかくれても世をすごす哉、」の古歌に詠はれてより迯水の名所たると大に知られて、然も迯水の何物たるやは殆ど捕捉する所を知らざる也。

諸説紛々たり。 従て古より武蔵野の古蹟探究家は何れも極力之を明にせんと秘めたりき。 街道旧蹟考と名所考の記す所参照すべし。

第一説(蒸気説)

旧蹟考に曰く迯水は蒸気也。 春の麗なる日地気蒸れて、遠く之を望めば草の葉末を白く水の流るゝが如くに見ゆるもの也。 そこへ至れば影なし。 三四月迄の事なりとぞ、と。 名所考に曰く、迯水は水にあらず、曠々たる原野に此方より見れば草の末の水の流るゝ如く見やるが、其処に行て見れば水なし。 而して又向ふに水ある如く見ゆるなれば、行程先へ迯行く様なるを以てなりと云ふ、と。 二書必ずしも全く一ならずと雖、仮りに之を蒸気説と名けん。

第二説(出水説)

名所考に曰く、「宮寺郷と云ふ所に不老川あり。 畑の方より湧いて川となり、夏の大雨にて出水の節は怪我人等あり。 毎年大晦日に至て水流るゝとなし」と。 旧蹟考は曰く、武蔵野地名考に言ふ。 「或人霖雨の頃武厳野を行くに野路の外なる処は水湛えて通ひ難し。 野中を行けば何処とも無く水流れて、草根沼の如し。 此頃往復の人定ならず。 道を此処彼処とさまよひ、水無き方に渡す。 武蔵野の人皆知れる所にして、八九月頃霖雨に偶ひては必ずあるとなり。 これなん迯水の迯かくれても云々と符合するとにや。 又一説に不老川は年末に水絶ゆる故迯水なりと云へど、こは迯水にあらず、渇水なり」。 と。 要するに以上を出水説と名けん。

以上二説は必ずしも地点を定めざるもの也。

第三説(末無川説)

名所考に曰く、水野村と云ふ所に郷染(けずみ)水野忠助と云ふもの居屋敷に小川あり。 藪の中に流れ入り地中に染み込で流の末無し。 余偶々忠助の家に至り見るに小川あり。 源はこれも宮寺郷の辺より起り、流るゝと二里許なり。 今は藪はなくて、川の末堀切てあらはに見ゆ。 その五間ばかり上、鍵の手に折れたる辺まては潺湲たる流なれど、堀切の処に至れば、水止で其行衞を知らず。 其源を問へば、僅に三尺余ばかりなりと云ふ。 水野村元新田地にして人家もなかりしを忠助が先祖はじめて開きしとなん、と。

三説何れも得失あり、殊に迯水の歌其ものが、既に曖昧也。 然れども、強いて三説の中一を撰ばゞ第三説を可なりとすべきか。 因に武蔵野話は著者其地に住して、実見し実聞したる処なりとて曰く、「迯水、一体は原中の気にして、夜中土中より蒸し昇りし靄(もや)の一面に引き渡りたるを風にて地上に吹きしく故、自然に白く水の如く見ゆるなり。 彼方より来る人を見れば、腰より下は靄にて見えず、水中を渡るかと疑はる、朝辰半時になれば陽気盛となり、次第に靄消ゆ。 之を迯水と云ふ。 又夕方申半時頃より又見るとあり。 三月末、四月上旬の頃は人の見るとなれど、家居多き処には打てなきとなり。 昔より言ひ伝ふるは多摩郡小金井の辺より田無の辺まで、原にて度々見たりし人ありしと。 近比は野老(ところ)沢の原より北に、留、永井の交の野又は留より北、大野にて折々見るとあり。 」と。