堀兼井
堀兼井は古来頗る人目を惹き、武蔵野を語るものは迯水と共に直に堀兼井を連想す。
古歌頗る多し。
千載集 俊成卿
武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近きにけり
俊頼集 俊頼
浅からす思へはこそはほのめかせ
堀兼の井のつゝましき身を
山家集 西行
くみてしる人もあらなん自つから
堀兼の井のそこのこゝろを
拾玉集 慈円
いまはわれ浅き心をわすれみす
いつ堀兼の井筒なるらん
名寄 後の久我卿
堀兼ぬる水とのみきく武蔵野の
身はさみたれの波の下くさ
同 冷泉卿
武蔵野や堀兼の井の深くのみ
茂りそまさる四方の夏草
伊勢家集
いかてかく思ふ心は堀兼の
井よりもなほそ深さまされる
六帖 読人不知
武蔵野の堀兼の井の底澄み
思ふ心を何に例へん
おもかけのかたるに残る武蔵野や
堀兼の井に水はなけれと
等種々あり。
堀兼の井の世に知られたると斯の如し、然れども未だ何れの処に果して真の井跡ありしを知らざる也。
斯くて武蔵野の名勝として、堀兼井の名、著しきに従て、堀兼井の跡なりと称する処各所にあらはれ、或は荒唐なる伝説を附会し或は尤もらしき理論を構成して古跡争を行へり。
此故に堀兼の井の由来及其古跡に関しては、古来よりの諸書殆ど帰着する所を知らず、或は東京府多摩郡に於て之を求めんとするあり。
或は東京市中牛込、赤坂等の辺に之を定めんとするあり。
更に之を入間郡内にありとする多数説に於ても堀兼村、入間村所沢近傍等の諸説混出せり。
此故に文政七年刊行の武蔵名所考には諸説を考定列挙せる上、自ら其地方に就きて井跡と伝へらるゝもの十四ヶ所を調査し一々之を挙出せり其要に曰く
余其地に就きて之を探りしに入間郡堀金村(今の堀兼村大字堀兼)北入曽村、北入曽新田(入間村北入曽)南入曽村等に於て土人七曲の井と称する古井の跡と覚しき窪かなる所十四ヶ所あり、皆堀兼の旧跡なりと云伝ふ(中略)其十四ヶ所は堀金村に七ヶ所、北入曽村に三ヶ所、北入曽新田に二ヶ所南入曽に二ヶ所あり
とて各の位置、実状を説述せり。
而して堀兼村内なる「カンヽ井戸」藤倉下奥富青柳村等の古井跡なども参考として説明せり。
堀兼の井跡と称するもの古来斯の如く多くして而も其帰一する所を知らざること亦斯の如し。
然らば其何れを以て真の古跡に当つべきか将た又別に堀兼井なるものに就て別個の所説を試みざるべからざるか是れ吾人の講究せざるべからざる所なり
然るに普通には堀兼村大字堀兼、堀兼神社境内に存する窪地を以て井跡と認定せるが如く、景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の帰途
上総国より知々夫国に凱旋の際大旱に遇ひ給ひしかば尊命じて井を堀らせ給ひ、辛ふじて水を得たりとの伝説さへ残り、慶安三年五月松平伊豆守其臣長谷川源左衛門尉に命じ浅間神社(即今の堀兼神社)再営の時井跡の碑を立てしめ、次で秋元但馬守亦其臣岩田彦助をして碑を建てしめ、正三位牌原宣明の詩を刻せる碑
も亦建てらるゝに至れり。
斯の如くにして一般には堀兼神社の境内即是れ堀兼井蹟なりとの説行はる。
然れども一説には井跡はもと神社の丘下にありしを之を埋めて塚を設け丘を築くに用ゐし土を取りし窪地を以て井蹟と見做すに至れりと称し頗る曖昧なるを覚へしむるに加へて此辺の地凡て新田地に属し村名を堀兼と名けしも決して甚だ旧き時代の事とも覚えず。
更に諸国里人談三芳野旧蹟記には浅間祠より五六町南に井の跡ありと載せ、宗久旅日記に堀かねの井こゝかしこに見ゆめりと記し、比較的古き旅行記にして浅間神社々地の井跡を載せざるもの多し。
依是観是堀兼井古来必ずしも今の堀兼神社の境内ならざりしを知るべし。
斯の如く堀兼井の古蹟なるもの容易に帰着する所を知らずと雖、思ふに其遺蹟の如き決して某々の地即是なりと断定する能はず、又断定するを要せざる也。
蓋し古代の時に当り民人が新地に移殖して先づ最も必要を感ずるは水なり。
人は或場合に於て渇を以て飢以上の苦痛とすべし。
故に此等古代の民人が武蔵野の一部に来て先づ苦しみしものは水ならざるか。
之を今日の状態に見るも所沢町付近より入間堀兼等の諸村高台の地は井の深くして之を穿つに多大の困難あるは何人も認むる所なり。
況や古代人智開けず器具の如きも不完全なりし頃をや。
之を以て或は七曲形に土を穿ちて漸く水に逹せしめしもあらん。
或は穿井中途にして失敗に終りしもあらん、斯の如きもの伝はり伝はりて京人の歌にも詠はれ、遂に武蔵野の一名物たるに至りしなり。
然らば井蹟なるもの之を或一の地点に限定する必ずしも不可ならず、之を限定せざるも亦可なり。