堀兼の井の世に知られたると斯の如し、然れども未だ何れの処に果して真の井跡ありしを知らざる也。
斯くて武蔵野の名勝として、堀兼井の名、著しきに従て、堀兼井の跡なりと称する処各所にあらはれ、或は荒唐なる伝説を附会し或は尤もらしき理論を構成して古跡争を行へり。 此故に堀兼の井の由来及其古跡に関しては、古来よりの諸書殆ど帰着する所を知らず、或は東京府多摩郡に於て之を求めんとするあり。 或は東京市中牛込、赤坂等の辺に之を定めんとするあり。 更に之を入間郡内にありとする多数説に於ても堀兼村、入間村所沢近傍等の諸説混出せり。
此故に文政七年刊行の武蔵名所考には諸説を考定列挙せる上、自ら其地方に就きて井跡と伝へらるゝもの十四ヶ所を調査し一々之を挙出せり其要に曰く
余其地に就きて之を探りしに入間郡堀金村(今の堀兼村大字堀兼)北入曽村、北入曽新田(入間村北入曽)南入曽村等に於て土人七曲の井と称する古井の跡と覚しき窪かなる所十四ヶ所あり、皆堀兼の旧跡なりと云伝ふ(中略)其十四ヶ所は堀金村に七ヶ所、北入曽村に三ヶ所、北入曽新田に二ヶ所南入曽に二ヶ所あり
とて各の位置、実状を説述せり。 而して堀兼村内なる「カンヽ井戸」藤倉下奥富青柳村等の古井跡なども参考として説明せり。
堀兼の井跡と称するもの古来斯の如く多くして而も其帰一する所を知らざること亦斯の如し。 然らば其何れを以て真の古跡に当つべきか将た又別に堀兼井なるものに就て別個の所説を試みざるべからざるか是れ吾人の講究せざるべからざる所なり