然るに普通には堀兼村大字堀兼、堀兼神社境内に存する窪地を以て井跡と認定せるが如く、景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の帰途
上総国より知々夫国に凱旋の際大旱に遇ひ給ひしかば尊命じて井を堀らせ給ひ、辛ふじて水を得たりとの伝説さへ残り、慶安三年五月松平伊豆守其臣長谷川源左衛門尉に命じ浅間神社(即今の堀兼神社)再営の時井跡の碑を立てしめ、次で秋元但馬守亦其臣岩田彦助をして碑を建てしめ、正三位牌原宣明の詩を刻せる碑 も亦建てらるゝに至れり。 斯の如くにして一般には堀兼神社の境内即是れ堀兼井蹟なりとの説行はる。
然れども一説には井跡はもと神社の丘下にありしを之を埋めて塚を設け丘を築くに用ゐし土を取りし窪地を以て井蹟と見做すに至れりと称し頗る曖昧なるを覚へしむるに加へて此辺の地凡て新田地に属し村名を堀兼と名けしも決して甚だ旧き時代の事とも覚えず。 更に諸国里人談三芳野旧蹟記には浅間祠より五六町南に井の跡ありと載せ、宗久旅日記に堀かねの井こゝかしこに見ゆめりと記し、比較的古き旅行記にして浅間神社々地の井跡を載せざるもの多し。 依是観是堀兼井古来必ずしも今の堀兼神社の境内ならざりしを知るべし。