堀兼井の断定に就て

斯の如く堀兼井の古蹟なるもの容易に帰着する所を知らずと雖、思ふに其遺蹟の如き決して某々の地即是なりと断定する能はず、又断定するを要せざる也。

蓋し古代の時に当り民人が新地に移殖して先づ最も必要を感ずるは水なり。 人は或場合に於て渇を以て飢以上の苦痛とすべし。 故に此等古代の民人が武蔵野の一部に来て先づ苦しみしものは水ならざるか。 之を今日の状態に見るも所沢町付近より入間堀兼等の諸村高台の地は井の深くして之を穿つに多大の困難あるは何人も認むる所なり。 況や古代人智開けず器具の如きも不完全なりし頃をや。 之を以て或は七曲形に土を穿ちて漸く水に逹せしめしもあらん。 或は穿井中途にして失敗に終りしもあらん、斯の如きもの伝はり伝はりて京人の歌にも詠はれ、遂に武蔵野の一名物たるに至りしなり。 然らば井蹟なるもの之を或一の地点に限定する必ずしも不可ならず、之を限定せざるも亦可なり。