堀兼

堀兼は村の中央より西南部に及び、𡋽(はけ)下及浅間(せんけん)之を堀兼とも呼ぶの二小部落に分る。 戸数二百に近かるべし。 𡋽下は即ち崖下の意にして、大家村欠上(かけのえ)、欠ノ下(した)と同類に属する地名也。

堀兼神社

大字堀兼の鎮守浅間神社にして、祭神は木花咲即姫命也。 四十一年十月東三木の鎮守愛宕神社及其末社を始とし、加佐志の鎮守羽黒神社及其末社、上赤坂の鎮守神明社中新田の鎮守愛宕社を合祀して堀兼神社と改称す。 本社は慶安二年三月の創建にして、昔時日本武尊東征の時大旱に遇ひ、富岳に折り天地感応ありて清水湧出せしを以て富士山の神霊を祀られしと云ひ伝へらる。 後世松平信綱其臣長谷川源左衛門尉遂能に命じ、武運長久を折り、再営せしが、明治四十一年十月に至り復改築せり。 丘上の社殿新にして前に仁王門を控へたり。 殊に境内は老杉生ひ茂り、神威霊なるを覚ゆ。 其名世に高き堀兼の井は普通此境内にありとせらる。 東西三間、南北三間円形の凹地也。 深二間半、四辺に石垣を設け、中央に井欄形を作りたり。 傍に藤原の宣明の詩、及秋元但馬守が起てしめたる碑石あり。 堀兼井そのものに就ては前に弁じたりと雖、仮りに此地を以て其古蹟を代表せしひるも不可ならず。

光英寺

元禄十四年奥富村瑞光寺抱持する処の古跡円照寺を堀兼に移し、教主護国寺の門徒たらんを請ひて許されたり、宝永二年に至り円照寺の旧号を改め光英寺と称し永く末寺たらんを願へり。 当時の願書今存せり。