三ヶ久保と云ふ付近の地にして今は大抵陸田となれり、地勢高平也。 永享十二年上杉持朝、足利義教の命を蒙て結城満朝を討んとせし時満朝父子三人早く打出て河越の北三木原にて上杉顕定と戦ひ松山城へ引籠れること上杉家図にありしと云ふ。 少しく怪むべし。
然れども天文六年川越城主上杉朝定、北条氏綱と戦ひ恢復を計らんとせしに七月十一日氏綱急に三木に進み、十五日城兵と戦て大に之を破れるは確に此辺ならん。 旧鎌倉街道の跡と称するもの此近辺を通過せり。 「イマルガ」橋と稀する小橋あり。 或は付近に砦趾もありて焼米などを出し、上の城とやら呼ぶと語れるものあるに依り、土地に就て質したれども、何れも知らずと云ふ。 砦趾の説は恐らく誤ならん。