坂之下

坂之下は村の東南に位し、川越東京街道の西三四町の処にまで及べり。 人家八九十戸、土地高台より低地に下る坂路に当り、隣村より来れば、坂の下と称するとを得べし。 東西五六町南北七八町、北方に坂之下新田あり。 天正以後支配地たり。明暦二年村地を分割して、一部采地となし、支配地采地並存したりしが、明治元年何れも武蔵知県事の所属となり、同二年品川県となり、尋て韮末社山県に転じ、四年入間県に属す。

天神社

村の東部に位し、二軒家と称する処の西南にあり。周囲は田圃相連り、境内雑木に混ゆるに杉檜を以てす。樹木大ならずと雖、亦田間の一小区也。末社には神明、稲荷、熊野、氷川等あり。別に御獄祠をも設く。

古老の口碑に曰く、付近に清水湧出する所あり、天禄(円融天皇の御宇に当る)年代此処に水神を祭りしが、二百十余年を経て文治元年地異あり、祠宇破損せしかば、同三年修繕を加へ、且今の地に遷し、並びに菅公を祀りて、田中の天満宮と呼べりと。天禄文治の年代何によれるやを知らず、降て永禄五年社殿改築の事あり、寛文四年地頭羽田氏より下田六畝の寄進あり。天保年末再建の議あり、弘化元年に起工し、嘉永元年に成れり。水神の号夙に消失し、天満宮の名一般に行はれしが、明治二年天神社と改称し、五年村社に列せらる。四十一年村内の無格社全部を此地移転せり。

東光寺

天神社より小徑をとりて西南行し、大和田所沢街道に出づれば、直ちに一寺あり。医王山東光寺と云ふ。門を入れば桜樹八九本先づ迎へ、本堂の茅葺屋根甚だ高きを見る。堂の講造も稍古風也。堂の右手に荒廃せる小堂あり。後の中崖に金刀比羅の祠を設け、傍に額堂もあり。崖上に住僧の墓あり。開山大和尚ヽ丶禅師慶長十九年七月廿五日、中興丶丶和尚寛永八年丶丶丶丶など記したる石塔立づ。崖下馬頭尊の傍二小板碑あり。一は貞治二年十月八日□賢と記し、一は理生台女正長元年四月九日と記されたり。曹洞宗、永源寺吾妻村久米)末、世代今に二十六世なりと云ふ。