城は坂之下の西南に隣り、古、北条氏照に属せし城塁ありしを以て村の名称となせりと云ふ。此地は其始本郷を通じて一村なりしを、城塁を設くるに及で、民家を本郷に移しぬ。其後廃城となるに及び、復本郷と合して、城本郷と称し、正保年間の国図にはしか記されたり。然るに正保以後元禄に至るの間、既に分れて二村となり、今日に及ぶ。人家六十余、天正以後貴志八郎右衛門の采地(田園簿二百獣石城本郷)となりしが、元禄五年支配地となり。明治以後坂之下と同一の所属を経て今に及べり。

城蹟

村の南に当て、人家の穡内、竹林の繁れる処、残壘あり、残濠あり、少しく進めば、土手稍々高く、堀稍々深くして、やがて本丸と覚しき一廓に出でん、此処は南柳瀬川沿岸の低地にして、遠望に便に要害可也。北条氏照の居城と称すれど、実は其幕下太田氏の持城にて、天正十八年八王子城陥落の際、城主太田氏も其地に籠りしかば、本城の如きは自ら落城せしものならん。風土記に攻城の伝説を載たれども如何にや。城墟は東西三町二十間、南北一町三十間、周囲十町に及ぶ。地形凸字をなし、本丸の断崖高さ五丈余。今此処を称して本陣山と云ふ。愛宕神社を祭れり。本城起原に関しては到底知るべからずと雖、伝ふるものは曰く、昔治承四年源頼朝挙兵の時、土豪某之に応じて此城に拠ると。信ずるに足らず。思ふに小田原記に武州本郷地主太田下野守とあり。下野守は太田道灌の孫氏資の族也。城の成れる恐らく其頃にあるべし。永禄十年八月太田氏資上総に戦死し、一女北条氏政の二男氏房を請ふて聟とし、太田十郎と号す。此に於て太田氏全く北条氏に帰せり。

城山神社

城墟にあり。元無格社にて愛宕神社と称せしが、四十一年十一月天神、熊野、八幡の三村社を此処に合祀し、城蹟に名をとりて城山神社と命名せり。合祀神社の中にて八幡社は本城の鬼門鎮守として、天正年間創立せし所にして、寛永十二年十二月四日地頭貴志氏の再建なりと梁簡に見えたり。

天神社は城内の鎮守として、設けられし処。愛宕社は天正十八年城陷り、住民復するに及び、後十数年を経て、本丸に建設せるものにして、武蔵野話に、神体は立烏帽子を冠むれる馬上の石像にて、丈一尺許、不調法の細工なれど古雅なり。城主太田下野守の像なりと云ふ。と記せるもの是也。又熊野神社は承暦の頃(白河天皇の御宇)の創立にて往古一村の鎮守なりしが、築城以後煙滅に帰せしを、慶長年間再興せしものなると、曰碑に存せり。社の傍に稲荷、御岳等の小祠あり。

武蔵野話に曰く、城村に寺院なく、本郷村に真言寺にて水木山東福寺と云ふあり。城村の人家みな其檀越なり。と。坂之下に近き路傍の雄木林中、権大僧都法印ヽ丶墓と刻せる数基の墓石立てり。此寺名を龍蔵院と称し、恐らく修験なりしならんか。今は其蹟を見ず。