村の南に当て、人家の穡内、竹林の繁れる処、残壘あり、残濠あり、少しく進めば、土手稍々高く、堀稍々深くして、やがて本丸と覚しき一廓に出でん、此処は南柳瀬川沿岸の低地にして、遠望に便に要害可也。北条氏照の居城と称すれど、実は其幕下太田氏の持城にて、天正十八年八王子城陥落の際、城主太田氏も其地に籠りしかば、本城の如きは自ら落城せしものならん。風土記に攻城の伝説を載たれども如何にや。城墟は東西三町二十間、南北一町三十間、周囲十町に及ぶ。地形凸字をなし、本丸の断崖高さ五丈余。今此処を称して本陣山と云ふ。愛宕神社を祭れり。本城起原に関しては到底知るべからずと雖、伝ふるものは曰く、昔治承四年源頼朝挙兵の時、土豪某之に応じて此城に拠ると。信ずるに足らず。思ふに小田原記に武州本郷地主太田下野守とあり。下野守は太田道灌の孫氏資の族也。城の成れる恐らく其頃にあるべし。永禄十年八月太田氏資上総に戦死し、一女北条氏政の二男氏房を請ふて聟とし、太田十郎と号す。此に於て太田氏全く北条氏に帰せり。