本郷
本郷は城村の西南に接す、或は本郷の名、安松郷の本地たりしに基くか。但今は安松の村名却て枝郷の地に冠せらる。元城村と一村たりしが、其後分合ありしと、前に述べたり。天正以来の変遷城村に同じ。
明治四十一年三月まで、松井村大字下安松に鎮坐し、元来本郷村の鎮守なりしも、何れの頃よりか本郷安松両村の鎮守として、両大字にて祭事を行ひ来りしが、氏子一同合議の上、安松と分離し、本郷の中央なる無格社八雲神社に合祀し、村社氷川神社と称せり。伝ふる所によれば氷川神社は遠く寛平の頃(宇多天皇御宇)創立せられしが、当時の社殿は柳瀬川永川下にありて微々たる一小祠に過ぎざりし也。其後治承年間修繕を加へしも、水害頻繁なりしかば、寛永元年両村氏子和議り、近傍の高地に遷せりと云ふ。今の社地は崖上にあり、二条の石階之に導き、石階の間老杉直立天に冲せんとし、藤羅之に纏へり。別に八雲社あり、八雲社は本来の産士神也。
村の中央に位し、氷川社の西二三町を隔てたり。真言宗にして、水木山東福寺と称す、青梅町金剛寺末に属せり、本堂古雅也。古老の口碑によれば、行基菩薩の開山なりと称すれども探るべからず。又開祖聖宝尊師延喜九年七月六日入寂なりと云ひ、応和、康保、安和、永祚年間の古碑今尚存せりと称すれど、真偽詳ならず、中興法流開山と称せらるゝ観真に至ては元禄十二年十二月十一日入寂の証あり。改宗以後今に至るまで十八世也。堂の東に成田山の殿宇あり。傍には薬師の小堂、乳不動等あり。信者少からざるが如し。墓地は本堂の西にあり。
慶安二年四月川越領主松平信綱が置きし所の武蔵野守と村民との間に争論起り、為に幕吏其他を踏査して、地境を画し、塚を築き、樹木を植えて以て境界とす、其塚今も尚存し、境塚と呼ぶ。当時六奉行連印の判決書、本村の旧家木下氏に蔵せり。其後貞享年間、武蔵野に就き再び訴訟起り。多年結ぼれて解けず。里人今に伝へて武蔵野訟訴と云ふ。
鎌倉時代、此地より鎌倉に達する道路あり。今僅に田徑として存す。