慶安二年四月川越領主松平信綱が置きし所の武蔵野守と村民との間に争論起り、為に幕吏其他を踏査して、地境を画し、塚を築き、樹木を植えて以て境界とす、其塚今も尚存し、境塚と呼ぶ。当時六奉行連印の判決書、本村の旧家木下氏に蔵せり。其後貞享年間、武蔵野に就き再び訴訟起り。多年結ぼれて解けず。里人今に伝へて武蔵野訟訴と云ふ。