南永井

南永井は亀谷の北に当り、東西に連れる大村落にして、東西三十町、南北四五町、人家八十戸、其構造皆大也。徳川初期の新開地にして、延宝三年松平伊豆守の検地あり。宝永二年以後支配地となり、本郷と同一代官を載て明治の世となり、武蔵知県事、品川県、入間県、熊谷県を経て埼玉県となり、十七年南永井連合戸長役場に入る。

村名の起原は明ならず。長井と記し来りしが、寛文九年正月北長井と分て、南長井と改め、更に永井と記すに至れり。

備考

別種の伝説によれば、此地は貞享の頃上州新田郡下田中村農市郎左衛門の三子父命を受けて来り開きし処、後市郎左衛門、新田若宮八幡の分霊を奉戴し来て、此処に祭れりと云ふ。其後来住するもの年に増し、遂に一村をなすに至れりと、此説に従へば延宝三年検地説非となる、余は寧ろ検地説に従はん。

八幡社

村の中央にあり。元禄年間の創立也。村の草創上州新田郡の市郎左衛門が奉戴し来れる処にして、開墾功を奏し、一村となるに及び、寛延の頃社殿を再建し、鎮守として崇敬せりと云ふ。明治五年村社に列せらる。

甘薯の起原に関する伝説

此辺の名物たる甘薯に就ては既に世に著しと雖、其起原に関しては諸説あり。村内吉田氏淳造の家に伝はれる処によれば、寛延四年二人の男女薩摩より逃れて、此地に来り、篤き介抱を受けたる謝礼として甘薯を遺せりと云ふ。其説委曲に渡り頗る小説的興味多し。藍し甘薯起原の一説話として、無かるべからぎる所のものに属す。

富ぢやとうなす、永井ぢやさつま

日比田亀谷まくわうり……村内俗謠の一