上下安松
上安松は牛沼の南に当り、戸数百四五十。東西十町、南北十二三町もあらん。
人家は多く柳瀬川に沿へる低地、若くは低地と高台の間にあり。
下安松は上安松の東に接し、東西七八町、南北十余町もあるベく、人家百二三十、上下安松の中間、普通中安松と称する処あり。行政上乃至正式の名称にあらずと雖、土人は専ら中安松として之を目するが如し。
中安松に寺あり。安松山長源寺と云ふ。崖に拠り、陸田を前にし、小門あり、鐘楼あり。小宮あり、小堂あり。本堂は最近の新築にして、亜鉛の屋根高く樹間に突出し、遠方人目を索く。又大芝徳山和尚寿蔵碑あり。然れども寺観の盛衰到底古今時を同して語るベからざる也。鐘の銘文に曰く、南游浮提大日本東海道武蔵国入間郡下安松村長源禅寺者傑用禅師開闢而大石道春公之草創加之自東照公世々賜印之古寺………元禄十三年七月 と。道春公とは大石源左衛門定久入道道俊にして北条氏照の養父也。寺は元天台の伽藍にして、此辺の土中、布目ある瓦及骨壺等を出せしとあり。其壺小にして、何れも茶毘せしものなるを認めしめしとかや、上安松に山王祠あれど、古は境内の鎮護なりと云ふ。台教伽藍の廃滅せしは何れの頃にや。其後北条氏開基となり、傑用徳英和尚開山となり、曹洞宗の伽藍となす。多摩郡山入村乾晨寺末にして、天正十九年寺領十石の朱印を賜はれり。徳英は元亀三年寂し、本堂には北条氏の位牌と称し、古色蒼然、文字認むベからざるものを安置したりき。或は大石道俊の位牌か。一説に氏照なりと云へど如何にや。寺宝に北条氏の文書及鞍鐙等ありしが、天明寛政年代の回録に遭ひ之を失へりと云ふ。
青霄山と号す。本尊は薬師にて北条氏照の守本尊たりし像を腹籠りとして造立せしとやら。位牌あり。青霄院殿透岳関公大居士、慈雲院殿勝巌傑公大居士、その中央に天正十八年七月六日と記せり。此寺氏照歿して其近臣等遺骨を葬り、一寺となし、氏照の諱字と院号を取て名けたりと云ふ。慈雲院は氏照の兄左京大夫氏政の諡也。然れども小田原記天正十八年七月十一日の条に北条氏政今年五十三歳従四位下左京大夫平朝臣截流軒と号す、氏照陸奥守従四位下平朝臣心源院と号す、兄弟自害し給ふ云々とあり。又多摩郡由木永林寺の伝には骨は彼の寺に葬ると称し、又元八王子宗関寺にも氏照の墓と称するものあり。何れも追福のために修せしものなれば何れが実の葬所なるを知らず。氏照院は廃寺となれり。
長源寺の西方、高台中復、樹木の間に小祠あり。亜鉛の屋根と覚しき、僅かに見ゆ。是れ恐く日枝社なるべく、又寺の東に続きて、石階あり、石階の上氷川社あり。更に下安松の中央、村道の北に入ると二三町にして幽邃なる一祠あり。稲荷祠なりと云ふ。更に東し柳瀬村との境に近き所、復一小祠あり、崖の中復にあり。熊野神社なりと云ふ。