社寺

神明神社

所沢字宮前にあり、村社也。元花光院(明治二年廃寺となる)別当たりし時、文政九年社寺共に焼失し、古記を失ふと云へり、或は曰く日本武尊此地に休息し給ふと、境内に一丈三尺の老欅あり、境内甚だ広濶、樹木鬱蒼たり、境内社に蔵殿、八雲、疱瘡、水天宮、琴平等の諸社あり。

薬王寺

所沢裏町にあり、東光山自性院と号し、始は臨済宗なりしが孝山俊和の時より曹洞となれりと云ふ。久米永源寺に属す、俊和は慶長十九年寂す、其後数回の火災を経て、今は仮本堂を立つ、堂の後庭風致可也、寺に一の伝説あり、南北朝の頃新田義宗勢衰へ、従者と共に此処に隠逃し、草庵を設けて住すること十余年にして逝けり依て庵を寺となし、其遺物を寺宝とし、其墓を設けたりと、其墓石近年までも存し、今は境内に、正四位下右近衛少将新田義宗朝臣終焉之地の標石を立てたれど、容易に信ず可からず、風土記に記せる胄立台は今なく槍及鏡を存す、以て義宗の遺物となす。

実蔵寺

所沢上町にあり、野老山と号し、真言宗にして開山を元融と云ふ、詳細は伝はらず、安政年間火事あり、今の本堂は嘉永中の建造に係ると云ふ、庫裡あり、小堂あり、寺の傍の小路は古の鎌倉街道也。

新光寺

上新井河原宿にあり、遊石山観音院と号す、新義真言宗也、寺の由来に曰く、昔右大将頼朝奈須野狩に打立ち給へる時、此辺を歴経せられ此処にて昼餉を行はる、其仮の小屋を建つぎ、田地を寄進して観音を安置せしが其後戦場となり、寄田を掠奪せられしを元弘建武の乱に新田左中将義貞、此寺に至り再び寺田を寄附せりと荒唐也。廻国雑記に福泉といへる山伏、観音寺にてとあれば文明の頃は既に一寺たりしならん。其後中絶し数十年を経て中興せる時の開山賢能、天正七年示寂せり其後弘化二年回禄に罹り、今に至るまで仮堂を建つるのみ。

不動院

所沢に在り、明治二十七年一寺となる、天台宗也。

鬼子母神

所沢に在り、明治二十八年創立。