所沢裏町にあり、東光山自性院と号し、始は臨済宗なりしが孝山俊和の時より曹洞となれりと云ふ。久米村永源寺に属す、俊和は慶長十九年寂す、其後数回の火災を経て、今は仮本堂を立つ、堂の後庭風致可也、寺に一の伝説あり、南北朝の頃新田義宗勢衰へ、従者と共に此処に隠逃し、草庵を設けて住すること十余年にして逝けり依て庵を寺となし、其遺物を寺宝とし、其墓を設けたりと、其墓石近年までも存し、今は境内に、正四位下右近衛少将新田義宗朝臣終焉之地の標石を立てたれど、容易に信ず可からず、風土記に記せる胄立台は今なく槍及鏡を存す、以て義宗の遺物となす。