吾妻村は郡の最南端に位する一村にして、北は小手指村、所沢町、東は松井村、南は多摩郡、西は山口村に隣れり。所沢田無街道村内を走れり。
地勢狭山の丘陵は南方に連り、柳瀬川其北を流れたり。川の沿岸低くしで水田あり。其北は又高台にして陸田多し。丘陵には雑木林あり。土質は概言せば肥沃ならず。綛、織物、茶、甘藷等の産あり。然れども土地狭く、殖産限あり。
蓋し闔村甚だ富裕なりとすべからず。郡内小村の一に居れり。
戸数三百八十四、人口二千七百三十三。久米、北秋津及荒幡の三大字に分る。
吾妻村地方は開創既に久しきものなるが如し。武蔵七党村山党に荒波多三郎の名見ゆ。又久米氏あり。恐くは何れも同名の地に住せしなるべく、
久米には鎌倉街道もかゝり、古来往還の要地たり。北秋津も開創久しく、東京府の南秋津と共に夙に開かれたり。南北朝の頃に至ては、戦屡々付近に行はれ、江戸時代に至ては釆地若しくは支配地にして、明治元年武蔵知県事に属し、二年品川県となり、次で韮山県、四年入間県(三大区一小区荒畑は二小区)、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年北秋津久米は所沢連合に入り、荒幡は山口連合に入り、二十二年合して吾妻村と称す。
此村古は鎌倉街道の要衝に当り、開創己に久しく、古戦場也。久米村久米川の名、既に史上に嘖々たり。古社寺も存す。遊子此村を訪ふて、雑木林の中に古墳を探り、麦畝の間廃寺を眺め、山上の松籟をきゝ、地下の渓流をきゝ、感慨特に切なるものあり。若し夫れ春花、秋月は固より、初夏の新緑、晩秋の紅葉等の好期節、杖を鳩峯八幡の境内より、荒幡新富士地方に曳くとせんか、天然の勝景、塵外の余趣あるを知らん。宜なる哉、東都の文士、大町桂月荒幡富士を推賞せると既に久しきや。
北秋津は村の東部に位す。或は曰く「秋津」は渥土なりと。人家九十、上人塚と称する小名あるが如し。
南方に位す。丘上にあり。村社也。記録無けれども境内に老大欅あり。昔は一町許東の瀧本院龍泉寺を以て別当とせしが、同院廃せらるゝに及び、松根寺其後を受けて別当となり、明治維新の時まで二百数十年間を経たり。明治十七年同院焼失す。依て古文書を失へりと云ふ。里伝によれば社は元秋津郷の鎮守なりしが、柳瀬川を境として南北秋津の別を生するに及び、地勢上北秋津となれり。然れども抑も両秋津の鎮守たりしとは、社の位置、甚だ南に傾き、殆ど両村の中央に位するが如きにても明也。当時の社殿は老大欅の下にありしが、朽腐するに及で、今の地に移す。天明中改造、文化五年拝殿を作れり。末社御岳、稲荷愛宕あり。
野話に曰く、「北秋津の鎮守を日月大明神と称す。至て小祠なれども、其神木と云ふ槻は三丈余は廻れり。二丈も上に枝あり。其枝のまたに寄木の榎木大木にして、枝葉四方へはびこれり。世に珍しき古木なり、此祠木の様にては古き村なるべし。此祠の東北に農家あり、其辺に城池の趣あれど何人の城なるやは知れず。
天保六年六月比企郡中見村牛頭天王社を移す。明治三年八雲社と改む。
真言宗にして、天慶二年寂寛創立す。往古は村の中央にありて松根寺と称せしが、正保六年三月恵眼今の地に移し、持明院と改むと云ふ。有名なる曼陀羅堂は境内にあり、堂下柳瀬川の深淵深碧也。
野話に曰く、「続記天長十年五月丁酉多麻入間両郡界に悲田処を置き、屋五宇を立て、民の病苦を救はれしとあり。其悲田処の旧地何れの処なるや知れず。
鎌倉街道は久米の長久寺前より
、
久米川の南、天王森(野口)へ出づるなり。」と。
久米は村の中央を占め、狭山の北麓より。柳瀬川の両岸に跨り、川越鉄道、其東方を走れり。伝説によれば、古此地に久米某あり。(其六右衛阿と云ふは八幡の社説にみゆ。今此家絶え、児玉郡にありとかや)依て村名となれりと。久米某は恐らく村山党の一人ならん。戸数百二十余、所沢停車場を去ると、十町、古蹟すこぶる多し。
古の鎌倉街道は所沢町実蔵院横手の小道より南に進で、此地に係り、十数町にして北多摩郡野口村に達せしが如く、道幅大凡三四尺、今も一部旧形を存し、一部陸田の間、帯の如く、賢固なる地質となりて存在せり。
東南部に位し、狭山の東端也。高さ十丈、山上より駿河甲斐以下八国の山々見ゆるが故に、名けて八国山と称するとかや。今は雑木繁茂し、人の訪ふもの稀也、伝へ云ふ。元弘三年新田義貞、武蔵野の合戦に此山上に旗を立て、床几を置きしと。山上雑木の間仔細に之を検する時は、高さ二丈許の一の古塚あるを知る。幼松七八本塚上に生ひ、草木周囲に茂て、やゝもすれば之を見落さんとす。此塚は即将軍塚也。然れども此塚、或は元弘戦死者の葬地なるか、或は上古貴人の冢なるか、或は陰陽道等に出でたる別個の意義のものなるか、今遽に之を判すべかららざる也。
八国山より西約二三町に位す。丘に拠りて境内広潤、老松多く、楢杉等の諸木之に交はり、遠景近態頗る高雅を極む。宮の入口、華表前、鐘ありかゝる。是れ丘下仏眼寺所属のもの也。銘に曰く。
入東郡久米村玉禅山仏眼寺者延暦二十一年壬午六月上棟開山良秀也。鳩峯八幡者延久庚〇従石清水写之。建仁度頼家公賜寺賜
元弘三源義貞祈戦得利、末社者冑挂松鐙稲荷等也。云々。
と。是れ寛永十七年庚辰九月の撰文也。然ども祠官の語る所によれば口碑は稍々此銘文と異なると云ふ。其要によれば
延喜二十一辛己年山城男山鳩峯に鎮坐ある八幡を分祀す。因て此地をも鳩峯と写すと云ひ伝ふ。元弘三(正慶二年)新田義貞八国山に陣し、此宮に参拝して戦勝を祈る、冑を取て掛けし所、今の冑掛の松なり。此松元和二年に枯死し、現存のものは第二代なり。周囲八尺余。尚其時義貞が鐙を置きし跡は今の鐙神社なり云々。
と。社に貞永 辰 月 日とかすかに見ゆる棟礼あり。又慶長十三年再営の棟礼ありと云ふ。風土記は元弘三年の鎮坐と記せり。要するに鎌倉時代の創立なるべし。神体木像二体、頗る古風也。伝説によれば尚一体ありしを、久米六右衛門なるもの携えて、児玉郡八幡山町に去り、其地に鎮坐勘請せりと、果して然るや否やを知らず。八幡山八幡神社は壮麗なる神社也。
八幡社の下に位す。
八幡社の下にあり。旧八幡の別当にして、鍾銘に所謂延暦二十一年の創立なれど、或はそれより後世に属せんか、寺堂は昔時の面影を止めず。寺に曼荼羅を蔵するとかや。
八幡社の西方約二町許の処にあり。改正の際八幡に合祈し、今は其跡を存するのみ。然るに風土記は此富士塚と八国山将軍塚と混合し、「将軍塚一名富士塚とも云ひ、塚上に僅の平地ありて、浅間の小社あり」と記せども誤れり。
時宗、正徳庵と云ふ。古記書類なし、伝に曰く元弘年間遊行二代真教上人の徒弟久阿弥陀仏当寺へ住職し其善行寺如来を本尊とすと、之によれば其以前己に一寺たりしが如し。但久阿弥を開山とす。其頃は村内字神明下にありしを(今も旧境内と云あり)正長中道阿弥住職の時今の地に移せりと其頃当村の住人中根伝七郎檀家なりしを以て同氏祖先の墓あり。後慶長年間中根氏幕府の徒となり毎年九月四日当寺の祖先を祭りしが維新後廃せり。
今多摩郡東村山村野口徳蔵寺(八国山より七八町)に存する元弘戦死者の碑は元八国山南麓に出でたる長三尺五寸、巾一尺五寸の板碑にして、
飽間斉藤三郎藤原盛貞生年廿六
於武州府中五月十五日令打死
元弘三咢中五月十五日 敬白
同孫七家行二十三才同死飽間孫三郎
憲長三十五才於相州村岡十八日打死
と刻せり。是れ元弘三年五月の役を語るべき最も重要なる史料也。風土記によれば碑は長久寺の僧に請て造りしものなりと記され、野話演路等は直に碑の長久寺にありしが如くに記せり。然るに徳蔵寺側の説によれば、八国山南麓に小堂あり。徳蔵寺末也。碑は畑より出でゝ、其堂側に置かれ、堂の廃するに及て、移したるなりと。出処は兎まれ。碑は甚だ大切也。
西北に位し、曹洞の古刹にして、龍谷龍穏寺に属す。風土記によれば、「開山は一種長純和尚にて永禄八年二月二十七日寂す。然れども是れ曹洞派となりし開祖にて、寺の起立は多摩郡由木永林寺と同じと云ふ。此寺応永年中の鐘あり。思ふに尚古き開創なるベし。開基大石氏の位牌を安置す。正面に開基英嵒道俊大居士とあるは瀧山城主大石遠江守守久の法名にして、左右に秀岳宗關大居士、直山道守坐主とあるは共に大石氏の法名にて、宗關は陸奥守氏照、道守は遠江守信重也。鐘は客殿にあり。銘に曰く
武州入東郡久米郷大龍山永源禅寺住持雪心叟融立本願檀那大石遠江入道
応永廿九年壬寅九月初吉日 直山 道守
と。此鐘十余年前まで存せり、今往く所を知らず、其他古記の徴すべきものなし。唯一の古墓石あり。墓石の一部は確に補添せるものたると疑ふまてもなし。文字三行に刻す。
直山守公菴主
正長二祀○
廿八日己刻
と。此墓或は徳川時代に設けしやも計られず。然れども案するに此寺直山道守座主(信重)が全くの開基なるが如く、守久氏照の位牌は是れ由木永井寺のを持来て合本寺として、祀れるものゝ如し。故に開山一種長純和尚の如き木像も、墓も皆由木にあり。
此寺徳川時代一たび火災にかゝり、今は荒廃、甚しく、山門と寺堂を存するのみ。麦秀の嘆を発せしむ。堂に向て左方、弁天祠あり、池あり之を囲む、雑草其周延を囲み、池水幽濁也。
水天宮社の辺にあり。赤きと血の如き石なりと云ふ。
永源寺付近にあり。十人の武士割腹せる処なりと云ふ。説話に過ぎず。
荒畑は村の西部に位す。説話に曰く、昔一流の幡飛来れるを以て荒幡と名けたりと。但村名は荒畑とも書せしとあるを如何せん。戸数百三十。
荒幡富士は村の南方狭山の上に立ち、高き五六丈、其底部にありては四方十間もあるべきか、明治十四年より始め、三十年に至て落成せり。山下に浅間祠あり。山上に起て眺むれば、遠近の丘上、起伏連亘一目の中にあり。富士山西南にあらはれ、秩父山西に聳ゆ。武蔵の平野は東方に展開し、南は八王子付近まで双眸の中にあり。狭下の雑木は春緑に秋紅に、之に交ゆるに松杉を以てす。風景殊に佳也。
富士山下に堂を設けたれど、山そのものが即ち浅間の本体也。社は元此処にあらず。本覚院の別当なりしが、明治五年村社となる。明治十四年今の処に移り、且氏子持久の策を講じて、三十年遂に富士山を築き終るや、村内二十四の小社を合し、尊崇の実を挙ぐ。
富士山の東方にあり。奥富村より移せりと云ふ。
富士山の北にあり。月桂山喜福寺と称す。開山賢慶元和六年寂せり。