北秋津

北秋津は村の東部に位す。或は曰く「秋津」は渥土なりと。人家九十、上人塚と称する小名あるが如し。

日月神社

南方に位す。丘上にあり。村社也。記録無けれども境内に老大欅あり。昔は一町許東の瀧本院龍泉寺を以て別当とせしが、同院廃せらるゝに及び、松根寺其後を受けて別当となり、明治維新の時まで二百数十年間を経たり。明治十七年同院焼失す。依て古文書を失へりと云ふ。里伝によれば社は元秋津郷の鎮守なりしが、柳瀬川を境として南北秋津の別を生するに及び、地勢上北秋津となれり。然れども抑も両秋津の鎮守たりしとは、社の位置、甚だ南に傾き、殆ど両村の中央に位するが如きにても明也。当時の社殿は老大欅の下にありしが、朽腐するに及で、今の地に移す。天明中改造、文化五年拝殿を作れり。末社御岳、稲荷愛宕あり。

野話に曰く、「北秋津の鎮守を日月大明神と称す。至て小祠なれども、其神木と云ふ槻は三丈余は廻れり。二丈も上に枝あり。其枝のまたに寄木の榎木大木にして、枝葉四方へはびこれり。世に珍しき古木なり、此祠木の様にては古き村なるべし。此祠の東北に農家あり、其辺に城池の趣あれど何人の城なるやは知れず。

八雲神社

天保六年六月比企郡中見村牛頭天王社を移す。明治三年八雲社と改む。

持明院

真言宗にして、天慶二年寂寛創立す。往古は村の中央にありて松根寺と称せしが、正保六年三月恵眼今の地に移し、持明院と改むと云ふ。有名なる曼陀羅堂は境内にあり、堂下柳瀬川の深淵深碧也。

悲田処?

野話に曰く、「続記天長十年五月丁酉多麻入間両郡界に悲田処を置き、屋五宇を立て、民の病苦を救はれしとあり。其悲田処の旧地何れの処なるや知れず。 鎌倉街道は久米長久寺前より 、 久米川の南、天王森(野口)へ出づるなり。」と。