東南部に位し、狭山の東端也。高さ十丈、山上より駿河甲斐以下八国の山々見ゆるが故に、名けて八国山と称するとかや。今は雑木繁茂し、人の訪ふもの稀也、伝へ云ふ。元弘三年新田義貞、武蔵野の合戦に此山上に旗を立て、床几を置きしと。山上雑木の間仔細に之を検する時は、高さ二丈許の一の古塚あるを知る。幼松七八本塚上に生ひ、草木周囲に茂て、やゝもすれば之を見落さんとす。此塚は即将軍塚也。然れども此塚、或は元弘戦死者の葬地なるか、或は上古貴人の冢なるか、或は陰陽道等に出でたる別個の意義のものなるか、今遽に之を判すべかららざる也。