富士山下に堂を設けたれど、山そのものが即ち浅間の本体也。社は元此処にあらず。本覚院の別当なりしが、明治五年村社となる。明治十四年今の処に移り、且氏子持久の策を講じて、三十年遂に富士山を築き終るや、村内二十四の小社を合し、尊崇の実を挙ぐ。