山口氏の世代

郡内に住せし豪族の事は殆ど全部、其系統を詳にせず。山口氏の如きも之に漏れざるものなりと雖、旧蹟考及里伝等によりて之を調査するに、甚だしき矛盾差誤なくして其世代を明にし得べきが如し。依て少しく之を掲げんとす。風土記が諸処に引ける山口氏世事並事蹟に至ては混乱錯雑到底理解し得べきにあらざる也。

山口氏にして東鑑に出でたるものを検するに、山口七郎は文治六年奥州征伐の時先陣の内にあり。山口次郎兵衛尉、山口小太郎も亦然り。山口小次郎は後陣にあり。山口兵衛太郎は承久三年宇治川にて手負の中にあり。

七党系図によれば村山家相継の孫山口太郎季信此地に住し、山口を氏とす。村山七郎家継を東鑑の山口七郎とすれば、次郎兵衛は嫡男、小太郎は嫡孫季信に当るにや。

山口家系図によれば、村山貫主頼任の孫山口七郎家継(金子家忠の叔父、始て山口に住す。町谷に第を構ふ)。子六郎家俊、子十郎高家、八代孫山口三河守高実(入間郡川越辺より足立郡までを領したりしが、鎌倉御所の為に戦死す。永徳三年六月十三日也。岩崎瑞岩寺に葬る)、子山口平内左衛門高清(父に先て貞始六年九月十八日川超にて戦死、瑞岩寺に葬る)此故に高清の子山口修理大夫高治、祖父の跡を嗣ぎ、上杉家に仕ふ。子山口小太郎高忠(明徳応永の頃山口領新堀村の山上に砦を構へり。龍ヶ谷城と云ふ)五代後山口主膳正高稿(北条氏康に攻められ、終に降る。此時砦も悉兵火のために灰燼となり、家伝の重器記録等も失ふ。)子下総守高俊子山口大膳高信(何れも北条家に属す)山口氏は其後流浪し多摩郡豊田村民となり、今も彼地に存せりと云ふ。