岩崎にあり。曹洞宗にして、久米永源寺末、祥雲山と号す。山口氏の菩提寺也。開山照室慧鑑、天正元年十二月寂すと云ふ。然るに照室は中興開山なるが如し。寺に二基の古霊牌ありき。一は本願信阿大禅定門貞治六年丁末九月十八日とあり。是れ即ち山口平内左衛門高清にして、之を里伝寺伝に考へ、且史書に合すに、南方紀伝若くは桜雲記に出でれる正平二十二年(即ち貞治六年)二月五日関東の宮方平一揆、河越の城に籠れりとの事実に符合し、閏六月河越落ち平内左衛門同九月に至て、河越付近若くは、山口城に死せるものならん。又一基、故参州大守満叟実公大禅定門永徳三年癸亥六月十三日とあり。是れ即ち、平内左衛門の父山口三河守高実にして、之を当時の史に徴するに、永徳三年四月は小山義政が足利氏満に滅されて小山の叛一段落を告げたる時なれば、南朝方なりし山口氏の小山に党せるはずなく、党して逆境に陥らざる筈なく、六月に至て或は自仭し或は殺害せられたるものならん。寺に乗鞍、槍、茶臼、茶釜等を存す。山口氏が納めたる所なりと云ふ。墓地に五輪塔一基あり。文字は不明なり。又寺に、護良親王の像ありと云ふ。寺は江戸時代に至て、地頭宇佐美氏、及久具氏の墓所たり。